2012年1月 「高齢化社会」

この一年限定で、介護保険を利用している事業所を訪問し県のホームページの「介護情報サービスかながわ」に掲載する写真と動画を撮影しコメントをつけるという仕事をしている。 なぜ限定かというと、来年度からは各事業所がリモートメンテナンスを使い、それぞれが直接県のサイトに情報をアップするこたおになっているからだ。 色々な介護施設を訪問すると、社会の縮図を見せられていような気持ちになってくる。

 

日本では「2060年には5人に2人が65歳以上の高齢者となり、人口は3割減って8674万人になり、社会保障制度の将来像の確立が急務となる」と言われている。 少子高齢化で働き手が減少していくと、これから日本はどうなっていくのだろう。 今の日本は現役世代3人が高齢者1人を支える構図だが、50年後には現役世代1人で高齢者1人を支える社会となる・・・具体的な数値で示されると大変な事態だと実感する。

 

グローバルに見ても世界中が人口高齢化に直面し、高齢者数は今後の40年間で1.5憶人から4億人に増えるという。高齢化率から見て、日本のみならずどの国も、これから多くの問題を抱え、雇用拡大や年金・医療の充実が必要になるだろう。

今日のNHKクローズアップ現代では「こんな最期を迎えたい」というテーマで、地域包括ケアの実現に
力を入れている小平市の取り組みが取り上げられていた。 殆どの人は、出来ることなら自宅で看取られたいと思っているが、自宅で終末期を迎えるのは、医師と看護師、介護との連携が必要であり、家族の負担も大変なことだろう。 人は希望があるから生きていけるというが、私は最後まで希望を持っていられるだろうか。 「何とかなる」と楽観してみるけれど、個人の問題だけではなく高齢化社会の抱える問題は多い。

2012年2月 「コミュニケーション力」

今月、外部評価の仕事を一年ぶりにスタートしたが、相手の事業所とのコミュニケーション力の大切さをつくづくと感じた。 コミュニケーション力のチェック項目で自己評価をしてみると問題点が浮かんでくる。以下は結果。

 

「伝える力」・・・少し伝わりにくいけれど、理論的に話ができる素地はある。 「話の筋道を示す地図を作り損ねがち。 まずはこれをしっかり描いてから、先に進みましょう」

「聴く力」・・・人の話を聞いていても、「相手の目を見て心を傾けて聴き、反応を返す」ところまで、しっかりできていない可能性も。 聴き上手まであと一歩。

「説得する力」・・・自分の話をきちんと伝えることはできても、説得するまでの交渉力が十分でない。 時間をかけて信頼関係をつくり、説得しよう。

 

そして、話を相手に伝えるには7つのポイント。

1. 相手が会話できる状態を確認してから話す。
2. ポイントをメモに書いてリハーサルする。
3. 目線を外せる書類やメモを手に持っておく。
4. ワンセンテンスを短く区切り 「。」を意識する。
5. ネガティブな内容でも前向きな言葉で表現する。
6. Yes/No の質問で相手の意向を確認する。
7. 相手に「話を聞いてくれる人」というイメージを与える。

 

なるほど。 これが、家族間になると甘えが出て別の難しさが加わるが、「話を聞いてくれる人」と思われたら、調査もスムーズにすすむ事だろう。 まずは自分なりに聞く力を付け、上手に伝える努力をしよう。

2012年3月 「春を求めて」

例年にない寒さが続く中、ひと足早く春を求めて南房総を訪ねた。 黒潮の影響で温暖な地形のはずなのに、期待に反しこの日はまだまだ寒風が吹いていた。

 

3月3日ひな祭り。 初孫の初節句に合わせるかのように、この日は勝浦でビッグひな祭りが行われていた。 遠見岬神社の60段の石段や各商店の店先には合計数万体のひな人形が飾られ、春を待ち望む人々で賑わっていた。 我が家のお雛様は武家風でこちらの飾りは京風の優しいお顔だが、これだけ揃うと笑いたくなるほど・・理屈抜きで・・壮観だ。

 

館山からは「房総フラワーライン」が続き、千倉の平磯地区では花農家が色とりどりの花を露地栽培している。 キンセンカやストックなどなどの優しい香りに誘われ、花摘みを楽しみ、昼には地魚や漁師町ならではの「なめろう」を味わった。

 

房総を旅し、日本はこんなにも海に囲まれているのだと改めて思う。 東日本大震災による福島第1原発の事故で原発の安全神話は崩壊し、太陽光など自然エネルギーへの期待は高まっている。日本とノルウェーでは海水と真水の塩分濃度の違いから電力を作り出す新エネルギーを実用化しようと研究開発が進んでいるという。 海水は太陽光や風力のように天候に左右されず、無尽蔵にある夢のエネルギーだ。 日本は世界で6番目の海洋国家だという。 震災から1年を経て、本当の春が来ることを心から待ち望んでいる。

2012年4月 「数学脳」

数学は嫌いじゃないけど苦手で、数学脳を持っている人をいつもうらやましく思っている。 そんな私だが、1942年米のリリアン・リーバーによって書かれ、日本でも再販された「数学は世界を変える」を興味深く読んだ。 数学は、世界をより良いものに変え、私たちの人生を豊かにしてくれるという作者の信念がイラストと共にわかりやすく語りかけてくる。

世の中の仕組みや科学の発展を5階建てのトーテムポールに例えている。 
1階:  科学を使った道具(自動車、冷蔵庫、ラジオ、飛行機、戦車・・)
2階:  作業室で発明をしている研究員。
3階:  理論的な人間で役に立たない問題を考える純粋科学者の研究。
4階:  数学者、古典数学を3階の純粋科学者の科学的発見に当てはめる。
5階正4面体の屋根裏部屋:  純粋数学者が現代芸術家と住んでいる。

 

例えば「ラジオ」について: 2階のマルコーニが無線通信の送信に成功する。 3階のヘルツが電磁波の存在を明らかにする。4階のクラーク・マクスウェルが電磁場の波という考えを思いつき微積分を当てはめ微分方程式に導き出し電磁波の存在を結論した。最上階で生み出されるのは、人間活動の中でも最も興味深いものだが、それが降りてきて1階の道具になってしまったら、もっとも興味深いものではなくなってしまう。などなど・・。

数学や科学が戦争に利用されてしまった第2次世界大戦という激動の時代にあって、著者は数学や科学が本来持っている「人間性」を取り戻し、人類の平和と進歩のために使われるべきだと説いている。 今、原発事故に苦しむ日本人にも、この本は大切な事を教えてくれている。

次に、タイトルに惹かれて読んだ「面白くて眠れなくなる数学」、作者の数学に対する思いは伝わってきたが、タイトルに一本取られた気がしたのは、数学脳を持たない悲しさか・・・。

2012年5月 「125回 タイフェスティバル」

恒例のタイフェスティバルが連休明けの土日、代々木公園で行われた。 昨年は東北大震災の影響で中止となったため、2年越しの今年はいつにもましてワクワクしながら出かけた。 五月晴れの新緑のなか、原宿駅から足取りも軽やかに会場の代々木公園に向かう。 10時10分公園着。 忙しくて会えないかもしれないと思いつつ、大使館に勤めているタイの友人に到着メールを送る。 

まず、私は鬼皮をむかれパックされたドリアンを、そして主人はタイのシンハービールを片手にゆっくりと会場を一巡。 レストランブースには各地から集まった60軒以上の名の通った店が屋台を出し、賑やかな呼び声をかけている。 東北料理の「イーサン食堂」は10時半にもかかわらず長蛇の列が出来ている。 いやはやこれは大変・・。

 

タイ調味料や生鮮食料品そして物産店がどこにあるかをチェックし、混まないうちにと11時半にはお昼を頂くことにする。 これも食べたい、あれも美味しそうと・・行きつ戻りつ・・No.1をとったという「ガパオ食堂」のマッサマンカレーに決定する。 味はマイルドな豚肉のグリーンカレーといった感じで期待は裏切られなかったが、数多くの中から一つを選ぶのは至難の業!! 例年は人ごみをかき分けかき分け、歩くのもやっとの状態で腰を下ろす場所の確保もままならない混雑ぶりだが、今年はベンチならぬ花壇の縁石にランチの場所を確保できてほっと一息。

 

ステージではタイ大使による開会宣言のセレモニーが行われていて、友人に会うのは難しいと思っていたが、「日タイ修好125周年特別展場」で音楽を担当していた彼女を発見・・・会えてよかった。

メインのイベントである、タイダンスやタイ・フィルハーモニック管弦楽団の演奏などは時間の都合で観られなかったけれど、タイでもっとも有名な寺院の一つのワット・パクナムなどが臨時のお寺を開設していたり、カービングの実演やタイ文化の紹介があり、タイ一色に染まった代々木公園でのイベントを楽しんだ。 最後に、空芯菜、レモングラス、パクチ、青パパイヤ、ナンプラー、チリソース、マンゴスチンなどを買い込み満足の一日だった。

2012年6月 「中欧旅行

中央ヨーロッパを訪ねたのは一ヶ月前のことになるが、宮本輝の「ドナウの旅人」を読み、訪れた街やそこで暮らす人々の様子が鮮やかに蘇ってきた。 「ドナウの旅人」は7ヶ月で7ヶ国を巡る物語だが、私たちはゴールデンウィークを利用して、8日で4ヶ国を駆け足で巡るという日本人らしい旅になった。それでも初めて訪れた中欧の国々は個性的で美しく、思い出深い旅となった。

 

1日目: オーストリア航空の直行便で夕方ウィーンに到着。 2日目:ホテルでの 朝食は、あまり人の集まっていない静かなテーブルをチョイス。 ところが、フォークナイフセットの包み紙に「今日は隣の人と仲良くなりましょう」と書かれていた・・・。 日本の箸袋なら分かるが、海外でこのようなメッセージは初めてのこと。 「よーし!」と気合を入れ、どんな人が隣に座るのかと興味津津で待っていると・・・驚いたことに、やってきたのはタイ人のグループ。 隣の若い親子が落ち着いたのを見計らって話しかけてみた。 会話は楽しく進み、最後は「チョックディー ナカ(グッドラック)」と爽やかにお別れをした。 初日の朝にタイ人と会話するなんて、楽しい旅の予感がした。

さあ、旅の始まり!! 一番初めに訪れたのはチェコのチェスキー・クルムロフ。 町全体が世界遺産に指定されている街は、どこを見ても美しく歴史を感じさせる。 午後は15世紀のフレスコ画のある聖ヴィトゥス教会などを廻る。 長時間のバスの移動では、延々と続く牧草地帯や菜の花畑に心癒された。

3日目: 世界遺産のチェコのプラハ城、カレル橋、旧市街広場や旧市庁舎、ボヘミヤのメルニック城を巡る。 プラハは100塔の街と言われ、歴史に重みがある。 ビールと音楽の国でもあり、毎年5月には国際音楽祭「プラハの春」が開催される。 ビールやお菓子作りは修道院から始まったそうだ。

4日目: プラハを出てスロバキアのブラチスラバ~ハンガリーのブタペストへ。 スロバキアは農業中心の国で経済的には厳しい状況にあるが、祖先にモンゴロイド系の人もいて親近感がわく。

 

ブダペストはドナウ川を境にブダの街とペストの街に分かれている。 ここで宿泊したヒルトンホテルでもタイ人グループと出会う。 ナイトクルーズで訪れたライトアップの中の国会議事堂、鎖橋など、実に素晴らしい。

5日目: ヒルトンの周りには多くの歴史建造物が残り、早起きをして朝日の中のマーチャーシュ教会、漁夫の砦などを訪ねる。  午後はウィーンに戻り、クリムトメニューの夕食(ここでもタイ人グループに遭遇!!)をいただいた後、モーツアルトも演奏したことがあるというベルゼ宮殿でモーツアルトとヨハンシュトラウスのコンサートを楽しむ。

6日目: ウィーンの歴史地区、シェーンブルン宮殿、ベルヴェデーレ宮殿、クリムトの墓、リンク通りを訪ねるが、宮殿の広さと絢爛さに当時のハプスブルグの絶大な権力を想像する。 今年は「接吻」で有名なクリムト生誕150年の年に当たりウィーンでは数多くのイベントが催されているようだ。 旅の最後は市庁舎の屋上からウィーンの街を展望し、夕方にはウィーンの森で白ワインを楽しくいただき、旅をしめくくった。

7日目: 朝ウィーン発。 この旅でタイ人グループに出会ったのは計3回・・なんだか不思議。

2012年7月 「朗朗介護」

毎日 暑い 暑い 暑い・・。 日本はフェーン現象ならぬドライフェーン現象で高気圧が日本列島の上で重なっているのだという。 高齢者のみならず室内にいる人まで熱中症で倒れたというニュースが毎日のように流れている。

 

慶応大学の名誉教授で物理学者の米沢富美子さんが日経新聞の「私の履歴書」に幼い頃の才媛ぶりから今に至るまでの人生を連載していた。 幼い頃から、見るもの聞くものに好奇心を抱き、「宇宙の果てはどうなっているの」「宇宙は無限にあるの」と問いかけていたという。  名前が同じなのでなんだか親近感を抱いていたが、幼稚園の時にはすでに幾何に目覚めていたというからすごい。 他の人の何倍ものエネルギーで何倍の人生を楽しんでいるようだ。 その米沢さんが物理分野ではなく、母親の介護の実体験を綴った「朗朗介護」を読んだ。

 

73歳の著者と71歳の妹さんが、94歳で要介護5のお母さんの介護を行う、まさに「老老介護」である。 介護は介護者の生活をある意味で破壊し、介護のために今までの生活をあきらめる事は多い。 そんな中でも「笑う力」を発揮し「世界一幸せなお母さん」にすることを目標に掲げ、頑張っている姿には迫力さえ感じる。 介護と研究の両立には大変な苦労があると思われるのに前向きで明るい。

介護の戸惑いと悩みの中「散る桜 残る桜も散る桜」という良寛和尚の辞世の句が引用されていたが、生まれてきたからには必ず死が訪れる。 介護者は介護を通して、真摯に命と向き合い人生を学ぶのだろう。

 

団塊の世代の一人として、これからやってくる超高齢者社会に自分がどう対応していくか。 一人ひとりの心構えも大事だが、個の力には限界がある。 将来を見据えての介護政策が望まれる。

2012年8月 「ロンドン五輪感動度」

産業能率大スポーツマネジメント研究所による意識調査では、オリンピックの「感動度」の部門で、卓球女子団体銀メダルの福原愛選手がトップ、石川佳純選手が2位となり、卓球ニッポン悲願のメダル獲得が多くの人の心をつかんだという結果だった。 睡眠不足もなんのその、手に汗握り応援したが、卓球王国の中国との差はなかなか埋められるものではないことも実感させられた。

私の中での一位はなんといっても「なでしこジャパン」だろう。
「子どもにやってほしいスポーツ」女子部門ではサッカー女子が五輪前後の比較で数値が最も上昇し、銀メダルを手にした「なでしこジャパン」の活躍を反映した集計となったのにもうなずける。 決勝では、1―2で米国に敗れ、銀メダルとなったが、表彰式で銀メダルを手にした「なでしこ」のはじける笑顔は、誇らしげに輝いていた。

二位はドイツを破って決勝進出を決めた「男子フルーレ」の思わぬ展開だ。 

日本とドイツのエースがにらみ合う、準決勝最後の試合。 試合は、残り1秒に太田が追いつき、スコアは40―40。 最後の1ポイントを争う延長戦に、決勝への道は委ねられた。 そして延長戦、2人の剣が同時に伸び、両方のチームから歓声がわき起こる!! 相打ち!!

延長戦で3度目となるビデオ判定へと持ち込まれると、会場は一瞬、静まりかえる。 そして数分後、ドイツ選手は腕が最後まで伸びきっていないと判定され、太田の攻撃の方が認められた!!両手を突き上げて絶叫する太田の元へ千田や三宅が駆け寄り、喜びが爆発した。 「ベンチワークも含めてチームが一丸になった。 太田先輩の諦めない姿勢だと思う」と語る三宅の言葉に納得だった。

三位は「競泳男子のメドレーリレー」

競泳の男子400メートルメドレーリレーでは、日本は、男子400メートルメドレーリレーでは史上初の銀メダルを獲得した。レース後、松田は「北島康介さんを手ぶらで帰すわけにはいかない、とほかの3人で話していた」と明かし、個人で五輪3連覇を達成できなかった北島選手への思いを語った。 北島も「自分の役割を果たすことができてうれしい」と集大成として臨んだ4度目の五輪で後輩とともに銀メダルを獲得した喜びを語っていた。 人が感動することを共感できるのは何と素晴らしいことだろう。

結果を出せた選手、思うようにいかなかった選手 思いは色々あるだろう。
そんな皆から元気をもらった。 「本当に 感動をありがとう!!」

2012年9月 「元気なシルバー」

今年は、高齢者の利用が増えているスポーツ施設やパッケージ旅行、高齢者施設向けカラオケ機器販売会社や介護の大手などの株価が年初来高値を更新しているという。 こうした企業は「元気なシルバー層」の旺盛な需要を取り込み、景気がいいらしい。

私が所属しているテニスクラブも若い会員が増えず、平均年齢は年々上昇している。 周りのスポーツクラブも時間にゆとりのあるシニアー世代が多くなっていると聞いている。 高齢化に伴い、長生きすればいいというのではなく、心身両面での健康管理をどのようにするかが問題になってくる。

105歳で現役の声楽家・嘉納愛子さんがインタビューで「お元気の秘訣は何ですか?」と聞かれ「知りたい。 聞きたい。 見たい。 会いたい。 歩きたい。 ・・・あなたたちが聞きたいのは、くよくよしないっていう事かもしれないわね」と答えていた。 ほんとだね!! お手本だね!! と思わずうなずいてしまう。

 

認知症予防の番組で、大切なのは肥満にならないように食事は腹八分にする、料理をする、短時間の昼寝をする、軽い有酸素運動をすることが大切と言っていた。 
料理
献立は何にするか?どんな材料が必要か?どう切るのか?味付けはどうするか?など、料理は脳をフル活用させる。

短時間の昼寝
長時間眠の昼寝は、夜眠れなくなり逆効果だが、30分以内の昼寝は認知症予防に効果があるとの報告がある。

有酸素運動
体操やジョギングなど有酸素運動は脳を活性化させる。

何事も継続するには楽しくやれることが一番だが、これならなんとかなるかもしれない?! 

2012年10月 「ノーベル賞」

「山中伸弥先生に人生とips細胞について聞いてみた」 を読んで。


「ぼくは医師であるということに今でも強い誇りを持っています。臨床医としてはほとんど役に立たなかったけれど、医師になったからには、最後は人の役に立って死にたいと思っています。 父にもう一度会う前に、是非、ips細胞の医学応用を実現させたいのです。」と書かれた言葉が、先生の人生を言いつくしているようで、胸が熱くなった。

 

山中先生のノーベル賞受賞に日本中が沸き、iPS細胞のなんたるかが新聞紙上やニュース番組で語られ、すごい事を研究している人たちがいることを知った。 2006年に初めてマウスでiPS細胞を開発し、07年に人の皮膚細胞からiPS細胞を作ることに成功し、受精卵を使わずに再生医療に道を開く画期的な成果を得た。何とすごい事なのだろう。

マラソン好きの先生は、何事も決してあきらめず、最後まで走り抜くことが重要だという。 座右の銘は2つ。 1つは、米留学中にグラッドストーン研究所のロバート・マーレー名誉所長から学んだ 「ビジョン・アンド・ハードワーク」の精神。 もう1つは、人生における幸・不幸は予測できないという 「人間万事塞翁が馬」。 臨床で壁にぶつかったことが、研究者への新しい道につながったという。 危険を察知するとすたこらサッサと逃げ出す私などは、とても宝物にはありつけない。 「ビジョンと努力」肝に銘じたい。

本を読むと、人を引き付けるためのプレゼン力の大切さが伝わってくる。 「ヒトの胚を使わずに体細胞からES細胞と同じような細胞を作る」「これが実現できればどんなに素晴らしいか」と魅力的なビジョンを語る先生は本当に魅力的だ。
血液や皮膚の細胞から遺伝子を持った心臓の細胞を大量に作り出すことも出来る。 しかもそれは、病気になる前のゼロ歳の時の心臓の細胞として活かされるという。 再生医療の可能性は夢のように膨らみ、病気を抱える人たちにとっての福音となるだろう。 これからは病気の原因解明と薬の開発に熱い視線が送られる。  どんな未来が待っているのだろう。

「飛ぶためにかがむ」は山中教授が人生の啓発書で本から学んだことだが、何と勇気をもらえる言葉だろう。

2012年11月 「悲しみと喜びと」

この一カ月はまさに人生の縮図のような一か月だった。
息子の婚約に始まり、母の緊急入院と突然の別れ、そして葬儀を終えた一週間後の慌ただしい引っ越し。 来年には娘が2人目の出産を控えている・・まだまだ落ち着かない。

 

母は還暦の年に父を亡くしたが、その後の29年間その寂しさを埋めるかのように色々なことに挑戦し、活動してきた人だった。 子や孫のためだけではなく、地域のボランティアや趣味のサークルで中心的な存在だったようだ。 私たちが「スーパーおばあちゃん」と呼んでいた母は、水彩画、書道、パソコン、自分史を手作りで製本、短歌、ピアノなどなど趣味も多彩だ。 その中で何よりも一番大好きだったのが卓球だった。 自宅を改築した時、皆が集まる広場になればいいと卓球室を作ったほどだったから。

 

母が亡くなる2カ月ほど前、卓球のコーチから試合に出るための特訓を2時間半受けた。 帰り道、電動付自転車に乗っていた母は、自宅近くの工事現場の足場が悪くなっていた場所で転んでしまった。
一年前に急性肺炎で入院し、体力が衰えている身体にはその時の転倒も引き金になったのだろう。

 母の口癖は「何があっても慌てるな。 どんなことにでも感謝の心を持つ」だった。 実はこの言葉は京都の祖母の口癖で、母が祖母を語る時いつも口にしていた言葉だ。 母が亡くなる3日前に息子の婚約を伝えることが出来た。 母の喜ぶ声を聞くことが出来たのは、私にとっても息子にとっても幸せなことだった。

最後に母が残した言葉:

皆々様有難うございました。
多くの人々に出会うことができた良い人生でした。

八十歳を迎える頃からも水彩画、ピアノ、パソコンなど新しいことへの
挑戦をして楽しい老後を過ごせました。

お別れとなりましたが、彼岸の父母や姑、夫、そして親しく過ごせた友人
知人にも会えると思います。

さようなら、さようなら

        「来し方の土産話をたずさえて  あの人この人思いつつ逝く」  

2012年12月  「聴く力」

今年の年間ベストセラーは阿川佐和子の「聴く力」だった。エピソードがちりばめられている著者の語り口は軽妙で面白く、阿川さんの人となりがつたわってきた。

 

まずは前書き。 全国の高校生100人が、それぞれ、森で働く名人100人のところを一人で訪ね、「聞き書き」をしてレポートをまとめるという話。 森で働く名人に高校生が不慣れなインタビューをする・・その時の名人の言葉が面白い。 「いやあ、わしの話、聞きにきたっていうんだども、緊張しちゃって、なあんも質問しねっからさ。こっちが心配になってああだこうだ話しているうちに、な」「会って質問されてるうちに、うれしくなっちゃってね。」と最初はとまどっていた名人が、話を聞いてくれてくれることに喜びを感じ、最後には「聞いてくれてありがとう」と高校生に感謝を述べている。

 

そして、コピーライターの糸井重里が東北大震災の被災地に行きたいと思いながらもどこへ行って何をすればいいのか分からないと迷っていたときに出会った女性の話。「避難所の人たちの話を聞いてあげてください」「話を聞いてくれたというだけで、孤独じゃないって分かるから。自分が忘れられていないと気づくから」という言葉にも納得させられる。 心を傾けて相手の話を聴くことで、相手も心を開いてくれ、話し手は聴いてもらえることで癒されるものなのだ。

 

最近よく耳にするボランティアに、お年寄りの話を聞く傾聴ボランティアがある。 普段は無口で無表情に見えるお年寄りでも、人はみな自分の話を聞いてもらいたいと思っているのだ。 友人や家族と話すとき、自分に関心のある話題しか真剣に聞いていない自分がいることに反省させられる。 母が亡くなる3日前のこと・・電話で「微熱で体調が悪いので今日は来なくていいから」と言いながらも、卓球のこと、水彩画のこと、エッセイ集の出版のこと、友人のこと、自分の母親や兄弟のことなどなど・・あれこれと語っていた母。 いつまでも続く話に「じゃあまた、体調が回復したら遊びに行くから」と受話器を置いた自分が悔やまれる。