毎年、新年に吉祥寺の母の家に皆が集まる。 今年は孫に当たる世代、4組の新婚カップルが加わり、いつにもまして賑やかで華やいだお正月になった。
今年87歳の母は、ここ数年毎年のように「こんな風に出来るのは今年が最後かもしれない」と言いつつこの日のために手間をかけ心のこもったお節料理を準備する。 ふるさと京都の祖母が新年を迎えるためにまめまめしく働いていた姿を思いだしながら支度をし、皆が帰るときの笑顔に、来年も頑張れるかもしれないと思うのだという。
母に日中電話をしても殆どつかまらない。 卓球、絵画教室、短歌サークルへと飛び回っているのである。 そんな母のすごいところは、自分の苦手なことにもチャレンジしそれを目標に楽しみに変えているところだ。
一つはピアノ。 子供時代にオルガンを習っていた母だが、思い出の詰まった家を兄夫婦との二世帯住宅に改築したのを契機に、兄嫁からピアノの手ほどきを受けるようになった。 その後、兄嫁の体調がすぐれなくなってからは、皆が集まった時に発表することを目標に掲げ、自分で練習を重ねている。そんなリサイタルの日が来るのをゆっくりと楽しみに待っている。
もう一つはエッセイ、昔は書くことが苦手だったという母の自分史への挑戦。 文をまとめパソコンで打ち、短歌や写真を挿入し、製本まで自分で仕上げてしまう。 もうすでに8冊が完了しているが、母の人生と同じようにこれからもまだまだ続きがある。 人が生きてきた証を表すのは本当に素晴らしいことだと思う。昨日、残された一生の間に、親とあと何回会えるかを平均寿命を基に日数で表していたテレビ番組があり、愕然とした。 忙しい母とは日常的にメールや電話で連絡を取るものの、実際に会うことは一年に数回しかない。 これからは機会を作り会いに行き、たくさんおしゃべりをしたいと思う。
作者は3つの「もし、」で私たち一人一人に問いかけている。
もし、地球の天然資源が使い尽くされ、資本主義が終わりを迎えることになったら?
もし、気候変動がさらに進み、自然がその手によって人類の急激な増加に歯止めをかけるとしたら?
もし、人類が、その進化的な本能ゆえに、今後も目先の物欲を抑えることが出来ないとしたら? 地球ではいったい何が起きるだろうか。
村上龍の小説「歌うクジラ」のような未来は御免こうむりたい。