今年の書初めに「無為」を選んだ。
近年に限らず中国との関係は歴史認識の違いから問題が山積しているが、 高市内閣の台湾有事発言から問題が顕著になっている。 歴史を振り返ると中国から学んだことは多い。政治の世界を離れると「中国の歴史」特に群雄割拠の三国志を描いた小説やドラマは面白い。
三国志は、2世紀後半から3世紀(約180年頃〜280年頃)の中国後漢末期から三国時代を舞台にした歴史群像劇。魏・蜀・呉の三国の覇権争いを描いた歴史書で、三国志の時代における日本は、卑弥呼が統治する邪馬台国が存在した弥生時代後期にあたる。
その時代を描いたドラマの中に「無為」の言葉が出てきた。戦いに疲れた女剣士が傷病兵や孤児が保護されている寺に掛けられていた「無為」の掛け軸をみて、争いの虚しさを知る。その静けさは悟りにも似ていて静かな感動を味わった。
以下「無為」について:
・老子(紀元前571~紀元前470年)の言葉で、中国哲学における無為は、道家思想(老荘思想)の根本概念であり、人間や政治の理想的あり方だとある。「無為」とは「何もしない」のではなく「人間的なさかしらを捨てて、自然に従う」状態を指す。無為自然(むいしぜん)などともいう。水のように生きる。水は、争わない、低いところに流れる、形に逆らわない。しかし最終的には岩をも削る、柔らかいけれど最強である。
・日本では平安期の漢詩文に姿を見せ、近代以降は文学・哲学用語として広く浸透した。平安貴族は道家思想に惹かれ、和漢混淆文の中で「無為」を理想的生き方として描いた。江戸時代に入ると、朱子学者や禅僧が解説書を著し、武士階級にも理念が拡散。明治期の思想家・内村鑑三や夏目漱石の作品においても、「無為」は“主体的静観”として言及された。
年末から年始にかけて訃報がとどいた。改めて、人の命の重さを考え、自分や大切な人の死を考えた。 葬儀の時には、よく似た人たちが集まるという。人間は成長して離れ離れになり、また葬儀で再会する。 親しい人が亡くなると未来に待っているのは孤独と悲しみだが、人は生老病死を受け入れるしかない。京都源光庵の「迷いの窓」と「悟りの窓」を思い出す。死は終焉でなく生涯の完成だと悟れるだろうか。
煩悩ばかりの日々。 「無為」を心に秘めて日々を過ごしたい。


