2019年1月 「全豪オープンテニス」

なおみ人気、豪でも爆発 あす決勝 愛される人柄、応援一色 の文字が新聞に踊った。

大坂選手は日本人離れしたパワフルなプレーが魅力だが、飾らない表情やユーモアあふれるスピーチがなんともチャーミングだ。

19日の3回戦ではラリー中に転倒し、主審に「大丈夫?」と心配されると「ノー!」と冗談で返し、会場が笑いで包まれた。  準々決勝の23日は、祖父の誕生日。  試合終了後にテレビに向かい「おじいちゃん、お誕生日おめでとう」とお祝いを送り、その後の記者会見で、粘り強くなった理由を問われると「私の精神年齢も3歳から4歳になった。 私にもハッピーバースデー」と答えた。

準決勝の24日、試合後のインタビューで暑さのために屋根が閉められたことを問われると「暑いのが好きなのに残念。屋根が開いていると私が輝く日だと思えるから」と話した。 なんとユーモアにあふれたキュートな答えだろう。

 

全米大会に続く2連勝を目指していた大坂は、ウィンブルドンを2度制覇しているチェコのペトラ・クビトバと決勝戦を戦った。 

第1セットはタイブレークの末に先取したが、第2セットでチャンピオンシップポイントに手をかけながら落とし、どうなることかとハラハラさせられた。  第3セットは、1-1で迎えた第3ゲームをブレークで奪い、5-4で迎えた第10ゲームではいきなりサービスエースで決めた。 最後となったサーブは、チャレンジの要求があったが判定の結果、チャンピオンシップポイントとなり試合が終わった。 判定結果を祈るように見守っていた大阪だが、「イン」の判定が出るとその場にうずくまり勝利の喜びをかみしめていた。


大坂は昨年の全米オープンに続き、四大大会2連勝の偉業を達成した。 世界ランキングも4位から男女を通じてアジア勢初となる1位に駆け上がった。  なんとも誇らしい!!以下のインタビューが大阪の成長を物語っている。

・第2セットで3つのマッチポイントを逃した。どのように気持ちを切り替えたか。
「相手のサーブだったのでキープされるのは仕方ないこと。世界最高峰の相手とやっているのだから、それほど楽に勝てるはずがない。第3セットはまたゼロからのスタート。このまま立て直せなければ、後で試合を見直して泣くことになる。後悔だけはしたくない。去年は4回戦で負けたのが今年は決勝まで来られたのだから、その幸せを感じてプレーしようと思った」

「最終セットは空っぽの状態でプレーしていた。ロボットみたいに、練習してきたことを実行していた。一喜一憂して余計なエネルギーを使いたくないというのもあった。勝利がみえてくると事の重大さに気が付いて、またカモンと叫んだりしたけど」

 

大坂をはじめとする日本勢の活躍に拍手を送り、息子家族が駐在するウィンブルドンで応援しよう!!と決めた。 ウィンブルドン大会の観戦チケットをサイトでチェックしたが、大坂なおみが優勝を決める前は、同一コートの同一ブロックを検索している人はたった2名だったのに勝利の直後には244名にもなった。 大坂を応援するみんなの歓声と熱気が伝わってくるようだ。

2019年2月 「わたしは不思議の環」

無作為に選んだ3冊の本が、普段 ぼーっと生きているいる私に「自分」というものを考えさせてくれた。

「鏡の背面」 篠田 節子
日本のマザー・テレサと言われた女性が自立支援の施設の火事で焼死するが、その後、毒婦といわれた別人だったことが分かる・・・他人の人生を乗っ取り、他人に成りすますうちに自己が崩壊していく・・・人間の表裏を描いた作品。

 

「ある男」  平野 啓一郎
こちらも、他人に成りすまし生きてきた男が事故で亡くなるところから始まる。 他人の名前で家族を持ち、人生をやり直すことで幸せをつかんだかに思われたが・・・
人とは何なのか、自分とは何なのかを問われる作品。

 

「わたしは不思議の環」 ダグラス・ホフスタッター
40年前にベストセラーになった「ゲーデル、エッシャー、バッハ」(あるいは不思議の環)の著者が再び「私とは何か」について取り組み、注目を集めている。 哲学めいた著書だが、「鏡の背面」「ある男」を読んだ直後だけに、興味深く読み進んだ。

「わたし」とはいったい何か、「意識」とは何か。 わたしの脳からどうやって「私」が生じてくるのか。

「私」とは決して実体のあるものではない。 決定を下す→行動を起こす→世界に影響を与える→フィードバックを受ける→それを自分自身に取り入れる→更新された「私」がさらに決定を下す・・・という循環のパターンが反復される。 そのときに随伴現象としてあらわれる錯覚が「私」であり「私」とは「不思議の環」なのだという。

 

「私」というのはある意味で、「私」というシンボルに結集した「ストーリー」であり、脳が作り出した「錯覚」である。 「私」というのは「自己増強する錯覚」であり、「幻覚によって幻覚を見ている幻覚」でもある。

著者は妻の死後、自分は妻の分身であるという感覚を持ち、妻亡き後も妻と同じように世界を見、記憶を共有できると確信する。 「私」というものに実態がなければ、物理的死の後でも移送が可能になる。 
これらのことは、タイ人の多くが輪廻を信じていたことを思い出させた。

それぞれの「自分」にそれぞれの「私」が存在する。 物事は冷静に相手の立場からも考えたいが、俯瞰的に見ないと「私」が混乱しそうだ。

2019年3月 「JAXA 相模原」

 日本の宇宙船「はやぶさ2」が小惑星「りゅうぐう」に到着したというニュースを聞いたのは2018年6月27日。 それから、相模原にあるJAXAを訪ねたいと思っていたが実際に訪ねたのは昨年の11月のことだった。「はやぶさ2」は2014年12月に島宇宙センターからの打ち上げられたが、こまの形の小惑星「りゅうぐう」に到着するのに3年半を要したことになる。

 

2018年10月3日

「はやぶさ2」がドイツとフランスが共同製作した探査ロボットを「りゅうぐう」に投下した。 カメラや顕微鏡など4種類の観測機器を搭載し、地表で水分や有機物の存在を探るのが目的だ。

 

2019年2月22日

「はやぶさ2」が「りゅうぐう」に狙いを定め、22日午前7時すぎ、高度45メートルに到達。 18年秋にリハーサルで落とした目印をとらえたが、接近のためのプログラムに不備が発覚する。 位置情報が想定と違った。修正は終えたが、りゅうぐうの自転で着陸地点が目標とずれてしまったため戦略を練り直し、5時間遅れで降下を始めたが、計画の2倍の速さで進む荒業を強いられた。

はやぶさ2は、機体から伸びる約1メートルの「一本脚」で踏ん張り、地表に午前7時29分着地する。 内部で弾丸を発射して岩石を砕き、舞い上がったかけらを取り込んですぐに飛び立った。
「人類の手が新しい小さな星に届いた」と、プロジェクトマネージの津田が着陸成功を正式に宣言した。 はやぶさ2が地球を離れてから4年あまりがたっていた。  TVのトップニュースで伝えられる、はやぶさ2の活躍とスタッフの歓喜の姿に釘付けになり、諦めない勇気に感動させられた。

 

2019年3月20日

地表一面に水の成分を含む岩石があることを宇宙航空研究開発機構(JAXA)や会津大学、東京大学、名古屋大学などが上空からの観測データを解析して突き止めた。 2月下旬の着陸で岩石の回収に成功したとされ、水分を含む岩石を地球に持ち帰り、詳細に調べるのは世界初となる。 これまでもりゅうぐう以外の小惑星で水の存在を示す証拠が見つかっているが、実際に地球に持ち帰った例はないという。

「はやぶさ2」は4月5日正午前に金属弾を撃ち込んで「りゅうぐう」の地表にクレーターをつくると発表した。 クレーターができる様子を観察し、小惑星内部の物質の採取にも挑む。  はやぶさ2は今年の11月から12月にかけりゅうぐうを離れ、帰還する予定である。  


これからも予期せぬ難題が次々と待ち構えていることだろう。  どんな場面に直面しても英知を集めて解決してほしい。 そして、また、あの感動を味わせてほしい!!

2019年4月 「切通しと万葉集」

「鎌倉文学散歩」を片手に鎌倉散策を始めてから約1年が経った。 かつては訪れたことがなかった「切通し」は興味深く、落石により通行止めの釈迦堂口と民家があり通行できない巨福呂坂を除くすべてを訪ねた。 

当初、鎌倉散策の目的はウォーキングとランチだったため、お気楽にタウンシューズで出かけていたが、山に囲まれた鎌倉の歴史を訪ねるうちにウォーキングシューズ(場所によってはトレッキングシューズ)が必要だと思い知らされた。

 

鎌倉は、標高159メートルの大平山をはじめとする低い山々に四方八方を取り囲まれている。 そのため昔の東海道は、西側から海沿いに鎌倉へ入り鎌倉の山を切り開いて相模湾を船で渡り房総半島へ至っていた。 古の人々が切り開いた道を歩いていると、歴史の流れを実感することができる。


(以下の歴史部分については「鎌倉ぶらぶら」を参照させていただいた。)

切り通しは、おもに中世、鎌倉が政治経済の中心だった時代に整えられた。 人や物の流れを良くするだけでなく、鎌倉に外敵が侵入するのを防ぎ、戦闘を有利にするための工夫も施された。

軍馬が走り抜けられないように道の真ん中に置き石が据えられていたり、武装した大群が簡単に通れないように鋭角に道筋が曲げられていたり、壮絶な合戦場面の背景になりそうな景色が出現する。

今も当時の古道らしさを残しているのは 「朝比奈」 「名越」 「大仏」 「化粧坂」 だと思われる。

 

「朝比奈切り通し」
鎌倉七切通しの中で、最も良く昔の姿をとどめている切通しである。 延応19年(1240)鎌倉幕府第三代執権・北条泰時により鎌倉と金沢・六浦を結ぶ道として開削された。 六浦港からの物資がかってこの切通しを経て鎌倉に運ばれた。 また、六浦付近で作られた塩も運ばれ「塩の道」としても知られた。 神奈川古道50選の一つである。

鎌倉から金沢八景方面に抜ける古道と呼ぶにふさわしい、かつての主要な道路である。
バス通りにある十二所から太刀洗の標識に従って5分も歩くと、鎌倉観光とは別次元の世界が開けてくる。
うっそうと茂る木々に囲まれた高低差のある坂道はまるで石畳が敷き詰められているかのようで当時の開削の苦労が思われる。 静けさと樹々のざわめきの中に佇むと、なんだかタイムスリップしたようである。

 

title="名越切通し">名越切通し
名越切通しは、鎌倉時代の古道の雰囲気を残している。 この切通しは、昔は衣笠の三浦一族や房総の御家人の鎌倉往来の道で、鎌倉防衛の要塞でもあった。

鎌倉の名越から逗子に抜ける鎌倉と三浦半島を結ぶ重要な道路で、今も昔の姿をそのまま残している。  逗子方面の法性寺口から入り、石切場跡ともいわれる大切岸や切通し、まんだら堂やぐら群など見どころが沢山ある。

 

大仏切通し
大仏坂切通しは、梶原・山崎を経て藤沢へ通じる切通しであった。
鎌倉幕府の防御の重要拠点として位置付けられ、近くに北条氏の重臣が住んでいた居館・常盤亭があった。 左右に切り立った崖が続く急坂の山道であり、未だに中世鎌倉の雰囲気を残している幽玄な場所である。

この日は、少し遠回りをして佐助稲荷の裏から長谷大谷戸、北条氏常盤邸跡を経て火の見下から鎌倉大仏裏へと抜けた。  観光客の多い長谷に出ると現世に戻ったようである。


化粧坂切通し
元弘3年(1333)5月18日、新田義貞の鎌倉攻めの時、激戦地となったつづら折の坂道である。 わずか80m程の坂道であるが幕府軍の抵抗は激しく、新田軍は、4日後の21日になっても突破できなかった。
化粧坂切通しは、武蔵方面から葛原が岡を通って鎌倉へ入る切通しである。 この切通しは、武蔵方面へ通じる主要な出入り口として、鎌倉の防御上重要な意味をもった。 

住宅地を抜けると急なジグザグの上り坂が続き息を切らせたが、距離は短く終点はあっけなく現れた。 途中、修学旅行の中学生のグループに出会ったが、さすがに元気だ。

 

「万葉集と鎌倉」
極楽坂の切通しに行く前に稲村ケ崎の海岸に立ち寄った。 江ノ電の長谷駅から海岸方面に行くと小さな稲瀬川がある。 この川が万葉集で歌われた水無瀬川といわれており、川の近くに史跡道標が立てられている。

万葉集の第14巻の東歌に鎌倉がうたわれている歌が三首ある

3365 鎌倉の 見越の崎の 岩くえの 君が悔ゆべき 心は持たじ
(鎌倉の 見越の崎の 岩くえのように あなたが悔いるような 不実な心はありません)

3366 まかなしみ さ寝に 我は行く 水無瀬川に 潮満つなむか
(いとしさに 寝にわたしは行く 鎌倉の 水無瀬川に 潮がさしていはせぬか)

3433 薪伐る 鎌倉山の 木垂る木を 待つと汝が言はば 恋ひつつやあらむ
(鎌倉山の 枝のいなう木を 松―待つとおまえが言いさえしたら 恋しく思い続けていようか)

明日、元号が平成から令和に変わる。
「令和」の由来は、「万葉集」の梅花の歌が出典で、作者は大伴旅人だといわれている。

初春の令月にして、
気淑(よ)く風和ぎ、
梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、
蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。

「注釈」  春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように
一人ひとりが明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる

今、この瞬間と1秒前は同じ時ではない。 明日から 新しい一歩を踏み出そう。

2019年5月 「令和と歩む」

 平成の時代が終わり令和の時代が始まった。 平成の始まりの1989年1月8日は、夫の赴任先のタイで迎えたが令和は私たちにとってどんな時代になるのだろう。

少子高齢化が喫緊の課題となり、これからの日本はどうなるのだろうと不安になるが、家から一歩外に出てみると、町も観光地も元気な高齢者であふれている。 とりわけ女性グループはショッピングセンター、レストラン、カフェなどでかしましく、おしゃべりも食欲もパワフルである。

 

2018年、日本で65歳以上の女性は2000万人を超えたが、これは総人口の16%であり男性を500万人上回っている。 今世紀の半ばに高齢女性は日本人の5人に1人に達するが、要介護者の7割は女性である。 さて、どうしたらぴんぴんころりと逝けるのだろうか。

 

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脚本家の北川悦吏子氏が新聞のコラムに、令和の時代は「ひとり」発が咲く時代になると書いている。 世の中に高齢女性が増える中 「人生のイニシアチブは自分でとる」 「おばあさんの活力を引き出し令和の時代を明るくする」 すなわち、「令和の主役はおばあさん」なのだという。

毎年、内閣府から高齢社会白書が発表されるが、平成30年版は高齢化の現状と将来像 将来推計人口でみる2065年の日本である。

ア 9,000万人を割り込む総人口

我が国の総人口は、長期の人口減少過程に入っており、2029年に人口1億2,000万人を下回った後も減少を続け、平成65(2053)年には1 億人を割って9,924 万人となり、2065年には8,808万人になると推計されている

イ 約2.6 人に1人が65 歳以上、約3.9 人に1 人が75歳以上

65 歳以上人口は、「団塊の世代」が65 歳以上となった2015年に3,387万人となり、「団塊の世代」が75歳以上となる2025年には3,677万人に達すると見込まれている。 2065年には38.4%に達して、国民の約2.6 人に1 人が65歳以上の者となる社会が到来すると推計されている。 総人口に占める75 歳以上人口の割合は、2065年には25.5%となり、約3.9 人に1 人が75歳以上の者となると推計されている。

 

ウ 現役世代1.3 人で1 人の65歳以上の者を支える社会の到来

エ 年少人口、出生数とも現在の半分程度に、生産年齢人口は4,529万人に

オ 将来の平均寿命は男性84.95歳、女性91.35

 

健康寿命が延びるのは誰しも願うところであるが、病の床にあってなお心穏やかに過ごすにはどうしたらいいのだろう。 ふと、京都の源光庵を訪れたときの「迷いの窓」と「悟りの窓」を思い出す。
生老病死の四苦八苦を表す「迷いの窓」そして「禅と円通」の心を表し、宇宙を表現している「悟りの窓」である。

2019年6月 「高齢化社会 」

 17日国連が「変わる世界の人口地図、6人に1人が65歳以上の高齢者」と公表した。 

最新の予測によると、世界人口のうち65歳以上の高齢者の割合は2050年に16%と、6人に1人を占めるようになる。 現在は11人に1人(9%)だが「歴史的な低さの出生率と寿命の延びで、事実上すべての国が高齢化していく」という。

 

日本が高齢社会の先頭を走っているのかと思っていたが、地域別にみると高齢化は欧州・北米で進み、50年には4人に1人に当たる26%が高齢者になる。 平均寿命は世界平均で72.6年から77.1年に延びるが、出生率は、現在の2.5から2.2に下がるとされている。

日本を含む東・東南アジアも、19年の11%から24%に上昇する。 アフリカや中南米にも高齢化は広がり、日本が直面する高齢者の社会保障や労働力の確保といった問題が、多くの国に共通する課題になっていく。

 


金融庁が6月3日、「人生100年時代、夫婦で95歳まで暮らすには2000万円が不足」という調査報告書を発表したのを受け、国会で与野党の攻防が続いている人生100年時代を見据えた資産形成を促す報告書をまとめ、長寿化によって会社を定年退職した後の人生が延び、95歳まで生きるには夫婦で約2千万円の金融資産の取り崩しが必要になるとの試算を示した。
公的年金制度に頼った生活設計だけでは資金不足に陥る可能性に触れ、長期・分散型の資産運用の重要性を示したが、麻生金融相は、この試算について「あたかも赤字になるような表現は不適切だった」と釈明し「正式な報告書として受け取らない」と金融庁に対して事実上の撤回を求める考えを明らかにした。

 

人生100年時代が言われ始めて以来、少子高齢化長寿社会である現実と年金不足は随分前から言われていたことで、年金だけに頼ることができないとは周知の事実だったはず。 撤回を求めるという問題ではないと思われる。

ロンドン・ビジネススクール教授のリンダ・グラットンさんが2016年6月に来日し「人生100年時代」の働き方を示した。 グラットンさんが、各地で講演をしあちこちのメディアに取り上げられたことで、人生100年時代の考え方が広まり、安倍政権が「人生100年時代構想推進室」を立ち上げたのが2017年9月だった。

それまでは、平均寿命が人生の終点ぐらいに捉えていた私は、突然現れた人生100年構想に、老後の年月の重みと起こりうるリスクについて考えさせられたものだった。グラットンさんは著書『LIFE SHIFT』の中で「長寿化により、引退後に余生を楽しむという人生は終わる、そしてそれはポジティブな変化だと言い、働き方は「教育」「勤労」「引退」の3ステージから、マルチステージへ移行する」と語っている。 政府も「新たなことにチャレンジしようという意欲のある人たちが学び直し、新たな人生を始めることができる。 そういう社会にすることで、日本は活力ある社会を維持し、発展することが可能になる」と・・理想論を唱え始めた。

 

健康で長生きし、新たなことに挑戦したり学んだりできることは素晴らしい。 香港に次いで世界第二の長寿国日本の平均寿命は84歳。 平均寿命は延び続けており、人生100年も夢ではないが、果たして健康寿命をどこまで維持できるのだろうか。 今の日本では、若い人たちも将来への不安が広がっている。  若者達が不安を抱える社会は健全な社会とは言えない。

 

長寿社会を生きるには生産性、活力、変身する力という3つの無形資産が必要といわれている。
1. 価値あるスキルの生涯学習、メンタリングやコーチングに寄与するような自分のプラスになる人間関係の維持など。
2. 活力を維持し、仲間と楽しい時間を過ごす。
3. 世の中の変化についていける。 世界に対してワクワク感を忘れない活力ある人、変身できる人。
いろいろなタイプの人と出会い、ロールモデルを得ることが変化のきっかけになる。

 

高齢の母や難病を抱えた友を想う。 理想の達成は厳しく、ため息が出るが、これらを意識して生活することはいいことなのだろう。  世の中は、きな臭い話に満ちているが、子供や孫たちが希望を持ち続けられる未来になることを願っている。

2019年7月 「ロンドン」

 この度のロンドン旅行はウィンブルドンチケットの遅配から始まった。
年明けの1月にはチケット予約をした。 日本にオフィスを持つエージェントは、驚くほどの高額だったため、スイスに本社のあるイギリスの会社で手配するが、6月20日には届くはずのチケットがなかなか届かない。 ライブイベントのチケット販売などで世界最大の流通マーケットとうたうこの会社を信用して発注したが、問い合わせても 「ただ今 配送中なので間もなくお手元に届きます」 としか連絡がない。 しかもチャットのみである。 出発の日も間近に迫り、追跡番号で調べてみると、品濃町以降の番地の記載漏れに加え、名前も間違えられていたため、宅配業者の支店に留め置かれていたことが判明した。 急ぎ業者に連絡して、やっと出発の3日前にチケットを手に入れることができた。


長期に留め置かれロンドンに返送されていたらどうなっていたかと思うと、怒りよりもチケットが無事届いたことにほっとする。 海外の業者は信用できないというのが複数の友人の話である。

6月29 
11:20am羽田発 ヒースロー空港3:50pm着。 空港で息子家族の出迎えを受け、滞在中お世話になる家に着き ほっとする。 皆の笑顔が嬉しく ホテルとは違ってやっぱり居心地がいい。

 

6月30
息子家族の案内でグリニッジ天文台へ。 世界の標準時になる子午線は年代によって,あるいはその正確性によって何度も変更されたという。 子午線を跨いでの写真は良い記念になった。 グリニッジ桟橋から船でウエストミンスターまでテムズ川を上った。 伝統ある建物や超近代的な建物が次々と現れるなか、イギリスがEU離脱の問題でスッタモンダしていることもすっかり忘れてロンドンの中心街をのんびりと水上から楽しむことができた。 

 

7月1日 ウインブルドン初日
Ealing Common 駅 - Earl’s Court駅 – Southfields駅(地下鉄で 約35分)  駅から徒歩15分

ウインブルドン観戦は2度めだが、テニスの聖地で日本人を応援出来ることの喜びに、ドキドキが止まらない。 開場の1時間前の 9:30 に到着するが、チケットが遅配されたこともあり、チケットが周りの人と同じであることを確認して一安心する。 センターコートの第1戦は13時からのジョコビッチ戦。 開始まで時間があったため、15番コートで行われていた西岡良仁 と ティプサレビッチ(セルビア)戦を応援に行った。  結果、西岡は負けてしまったが、フルセットまでよく頑張ったと思う。

 

13時からのセンターコート第一試合は、大観衆の見守る中 ジョコビッチ(セルビア) vs コール シュライバー(ドイツ)戦で始まった。 さあ、いよいよ始まる!! サービス前にボールを芝に弾ませる音が会場全体に響き緊迫した空気がいっそう張り詰める。 一打ごとに歓声とため息が入り混じり、センターコートを揺らす。  試合は予想どおりジョコビッチがストレートで勝利し、おなじみのガッツポーズに観衆は総立ちで拍手を送った。

第2戦は、大坂なおみ vs Yブチンツェワ(カザフスタン ロシア出身)。  大坂は、応援のかいなく負けてしまったが、次を期待しよう。 追われる立場は辛いものだ。

第3試合のエドマンド(イギリス) vs Jムナル(スペイン)は地元のエドマンドの勝利。
大坂なおみが敗れたので、翌日の第一試合に組み込まれた錦織の試合を応援するため、想定外の計画を立てることになる。

 

7月2日 ウィンブルドン2日目

当日の希望のチケットを手に入れるためには、始発電車が到着する前(日の出前)に着いて列に並ばなければならない。 夜も明けぬ 3:20 にタクシーで家を出てウインブルドン着4:00。 日中30度近くになるロンドンも早朝の気温は10度である。 周りの人たちは準備万端、毛布をかぶったりそれなりの装備をして並んでいるが、こちらは嫁から借りたダウンコートを着てもまだ寒い。 そんな努力の結果、前日からテントで並んだ人たちを加えても1596番、1597番目を獲得することができた!!

 

7:30ごろ係員が現れセンター、No.1、No.2コート用のリストバンドを配布していくが、人気のセンターコートから予約されていく。 当日の試合予定をスマホでチェックするが、SIMカードの調子が悪く、どのコートで誰が試合するのかが分からない。 仕方なく、入念にチェックしている日本人に習い No.2コートをゲットする。 やがて、のろのろと列が動き始めるが、券売機でトラブルが発生しさらに長々と待たされる。  錦織の試合が行われる12番コートに到着したのは、試合開始の10分前だった。 今回もぎりぎりセーフである。 どんなに並ぼうともどんなに待たされようともお天気に恵まれ、2日目のチケットもゲットできたことに感謝である。

 

錦織 vs Tモンティロ(ブラジル)
錦織の快勝を喜び、軽めのランチをとる。 その後、6番コートの内山を応援するが、途中腹筋を痛めインジュリータイムを挟んだため、2番コートで行われていたシャラポワを観に行く。 ただ、その不人気と途中棄権は残念だった。 この日もフルにウィンブルドンを楽しみ帰途についた。

 

7月3日 4日 ナローボート
Marylebone から Chiltern railwayでBarmingham Moorを経て乗り換えstMidland TrainでKidderminster駅に向かう。 車窓の景色は、のどかでもあり寂びれた感じでもあり、かつての大英帝国の栄光が感じられず、イギリスの地方のこれからが案じられた。

Kidderminster駅には、ナローボートでお世話になるブラウン夫婦が迎えに来てくれていた。 ネットでいろいろ読んでいたこともあるが、初めてお会いする気がしなかったのは、お二人のお人柄のせいもあるのだろう。

 

【ナローボートの案内より】
ナローボートとはイギリスには3500kmにも及ぶ内陸水路のネットワークを行きかうホテルボートのことです。 約200年前、産業革命時に運搬手段として時代を支えた内陸水路、蒸気機関車の出現とともに忘れられていましたが、カントリーサイドと古いものが大好きなイギリス人の手で甦ったのです。雄大なテーマパークのようにも見えるイギリス運河ですが、あらゆるところに歴史の足跡が見え隠れして、見学だけでなく、実際に手で触れ体験できる特別な空間になりました。


英国人ご自慢の「緑と歴史に満ち溢れる田舎」を英国独特のナローボートでゆっくり旅してみませんか?

ブラウン夫妻が長年かけて改装した真っ赤でおしゃれなナローボートは、宿泊してみると、なかなか考えられたコンパクトな構造になっている。   Kidderminsterを出て、のんびりと田園風景を楽しみ、ロックを4つ下りStourport in Seven で停泊し、お奨めのパブでカントリーディナーを堪能する。 翌日は同じ航路を戻り、昼頃 Kidderminster に到着した。 人の歩くスピードより少し速いぐらいのスピードでゆったり進むボートを、サイクリングの人たちが風をきりながら 「ハロー!!」 「ハブ ア ナイスデイ !!」 と声をかけ楽しそうに追い越していく。 川の水面には新緑の木々が映りこみ時の過ぎるのを忘れるほどである。 クロスする鉄橋の上では蒸気機関車の乗客が、手を振りながら通り過ぎていく。 究極のスローライフである。

2019年8月 「宇宙に命はあるのか」

 8月の日本列島は相次ぐ台風に見舞われ、九州での土砂災害や低地の浸水、河川の氾濫などが報じられている。 地球の温暖化は待ったなしの対策が迫られているというのに、各地では自国優先の争いが頻発し、アマゾン流域ではかつてない広範囲で森林火災が発生している。 

NASAの中核研究機関で火星探査ロボットの開発をリードしている小野雅裕さんの「宇宙に命はあるのか」を再読した。 同じ本を2度読むことはめったにないが、興味深いだけではなく未来に対して勇気が湧いてくる。

宇宙の138億年の歴史を1週間に縮めて紹介し、太陽系探査の驚くべき発見と永遠のテーマである「我々はどこから来たのか」の答えを探り、人類の宇宙への旅はまだ始まったばかりだと語りかける。

 

【本文から】

銀河系には約1000億個もの惑星が存在するといわれています。
そのうち人類が歩いた惑星は地球のただひとつ。
人類の宇宙への旅は、まだ始まったばかりなのです。

もし、宇宙に命がなかったら? 命とは何だろう?
そして、私はだれ? 私はどこから来たのか? 私はひとりぼっちなのか?
我々は何者なのか? 我々はどこから来たのか? 我々はひとりぼっちなのか?
分からないから 我々は捜すのだ  宇宙のどこかにある命を

火星に生命はあるのか。


火星の次にNASAが目指すのは木星の衛生の氷の下に海を隠すエウロパだ。 NASAは2022年に生命探査のための打ち上げを目指している。

1977年のボイジャー1号2号に託した「宇宙人への手紙」を搭載して打ち上げられたが、なぜ、宇宙人からのメッセージは届かないのか? 現在までに地球に届くには地球から55光年以内になくてはいけない。該当する星はたったの1500. 銀河にある星の1億分の1である。

未来のバーチャルリアティーは人間の神経回路に直接信号を送りこみ、宇宙船に乗りこむことなく銀河インターネットで肉体は地球にいながら何千光年かなたの世界を探査できる

 

【エピローグから】

○想像してみよう その美しい星空に、淡い星空に、淡い天の川の流れの中に1千億の世界があることを。

○想像してみよう その多くの世界には、雲が浮かび、雨が降り、川が流れ海に注いでいることを。

○想像してみよう その世界に生まれた好奇心とイマジネーション溢れる知性を。

○彼らはどんな哲学を持っているのだろうか。

○彼らはどんな歌を歌っているのだろうか。

○彼らは何を美しいと思い、何を愛おしいと感じるのだろうか。

○想像してみよう 彼らが何を想像しているかを

 

小惑星探査機「はやぶさ2」は、小惑星リュウグウの探査を目的とし、2014年12月3日に種子島宇宙センターから打ち上げられた。 2019年2月22日と7月11日、リュウグウにタッチダウンしサンプル採取に成功した。 JAXAは、2020年末にオーストラリア南部のウーメラに「はやぶさ2」を帰還させる予定であると発表した。  地球近くに存在するリュウグウが有機物を含むことが実証されれば、かつて、これらが隕石として地球に落下し生命の起源に寄与したという仮説が成立することになる。  これから10年から20年後、人類は地球外生命に遭遇する可能性も充分あるというのだ。 
果たして、その頃にはどんな地球になっているのだろうか。

2019年9月 「 ラグビーワールドカップ 」

 

 ラグビーワールドカップが9月20日からスタートした。  日本での開催は初めてだ。
ワールドカップラグビーというと、ネルソン・マンデラの映画 「インビクタス負けざる者たち」 の感動がよみがえってくる。  人々を熱くさせるスポーツだ。

 

大会の 「こんなチャンスは 4年に一度じゃない。 一生に一度だ!!」 というキャッチフレーズに誘われ、チケットを申し込んだ。 日本戦のチケットは抽選に外れたが、横浜国際総合競技場で22日に行われたアイルランドVSスコットランド戦を観戦することが出来、にわかラグビーファンになった。

 

 

試合開始2時間半前に競技場近くの小机駅に着くと、競技場までの通路には長い行列ができている。 列にはスコットランド人よりもアイルランド人のサポーターが多く、緑のTシャツが目立つ。 競技場に入ると75,000人収容できるというその大きさに圧倒された。 音楽が流れDJがお祭り気分を盛り上げている。 多くの人がビールを片手にこれから始まる試合をワクワクしながら待っている。 ラグビー観戦でのビールの売り上げは、サッカーの6倍にもなるというからスゴイ。

 

16:45 和太鼓が打ち鳴らされる中、両国の選手入場!! 湧き上がる歓声!! よく見ると私たちの左・右・後ろもアイルランドの緑色のサポーター達だ。 試合は、アイルランドがスコットランドに1トライも許さず 27対3 と圧倒したが、両者への熱い声援は途切れることが無かった。

試合の合間に 「Ireland's Call  アイルランズ・コール」 が歌われ、会場全体を包み込んだ。 アイルランドのサポーター達が高らかに歌うその一体感は感動的だ。 ラグビーのアイルランド代表は、サッカーとは異なり、アイルランドと北アイルランドの統一チームで構成されている。 Ireland's Callは南北一緒に歌えるように作られたもので、アイルランド人やラグビーファンには感慨深い歌だと知った。

 

帰宅後、改めてアイルランドの歴史を調べた。 英国に併合されていたアイルランドは戦争を経て1937年に独立し、49年に英連邦も離脱した。 その過程でプロテスタント系住民が多かった北部は英領の北アイルランドとなり島に国境ができた。 60年代後半からは、アイルランド統一を目指すカトリック系と英国の統治を望むプロテスタント系が北アイルランドを中心に凄惨な武力衝突を繰り返えしてきたが、南北が分断する前に創設されたラグビー協会は統一チームを貫いてきたという。

Ireland's Call アイルランズの叫び
Ireland, Ireland, (アイルランド、アイルランド)
Together standing tall (共に並び立つ)
Shoulder to shoulder (肩を組み)
We'll answer Ireland's call (共にアイルランドの叫びに応える)

 

アイルランドの人口は560万人程度と少ないが、世界各地に散らばるアイルランド系移民はアイルランドの人口の十倍くらいといわれ、世界でも有数の移民を送り出すの国となっている。 この機に日本にも多くのアイルランド人が結集したのだろう。

そんなアイルランドと北アイルランドに英国のEU離脱問題が影を落としている。 このまま、英国とEUの折衝がうまくいかず、国境ができるようなことがあれば統一チームにも影響が出てしまうのだろうか。

日本はその優勝候補のアイルランドに19-12で勝利し、前回大会で南アフリカを破った時以来の奇跡の再来となった。 さあ、これからどんな展開が待っているのだろう。 ワクワクが止まらない。

2019年10月 「台風とワイナリー」

 台風15号で延期になった旅行が、19号の来襲で再び中止になった。 
その2つの台風と関東・北陸・東北地方を襲った大雨の影響で、広範囲での土砂災害や家屋の浸水が起こり多くの被害が発生した。 旅行に代わり、新聞に掲載されていた「ワインの里 おいしい収穫祭」で2位にランクインされていた栃木県足利市にあるココ・ファーム・ワイナリーを訪ねたいと思ったが、このワイナリーも台風19号の被害を受けた。

 

ココ・ファームは「圧巻のブドウ畑とワイナリー」と紹介されていた。 1958年、知的障碍者の自立のためにつくられたワイナリーで、急斜面に広がるブドウ畑を見ながらワインと食事を楽しむことができる。 手作業で開墾した畑はスキーのジャンプ台と同じ傾斜で、歩いて登ることもでき頂上からの眺めは絶景とあった。 しかし、台風の影響でブドウ畑の中央と東側の2カ所が崩れ、山頂へつづく道路が崩落したことを知った。 

予定していたココ・ファームを訪ねることができなかったので、中伊豆にあるワイナリー シャトーT.Sに出かけた。 シャトーT.Sは、伊豆箱根鉄道の修善寺駅からシャトルバスで30分ほどの山頂に位置し、晴れた日には富士山や南アルプスが望める抜群の立地である。

このワイナリーは、カリフォルニアのワイン産地 ナパ・バレーをイメージして開設されたもので、醸造所やワイン蔵は自由に見学ができ試飲も楽しめる。 レストランの名前も シャトー レストラン ナパ・バレーである。 レストランの窓からは、10へクラールの広大なブドウ畑やブドウ畑を馬に乗って散策する人の姿が見られ、そののどかな風景から、ここが日本であることを一瞬忘れそうになった。

災害にあったココ・ファーム・ワイナリーは、現在、臨時駐車場を設けワインショップやカフェも営業しているとのことで、ほっとしている。   災害はいつ何時降りかかるかわからない。 
この度の災害はあまりに甚大で復興にはまだまだ時間がかかりそうだが、被害にあわれた方々の回復を心から願っている。  

2019年11月 「車内」

テニスをやめて車の運転をしなくなってからは電車に乗る機会が増えた。
電車に乗り降りする人は、絶え間ない川の流れのようであり、人々を眺めていると、限られた空間に人生の縮図が詰め込まれているようで面白い。

車内では、一人一人の様子が気になって仕方がないが、視線を向けると「席を変わりましょうか」と言われてしまい慌てることが何度かあった。 窓の外をぼーっと眺めるふりをしているのだが、席を譲ってほしいと勘違いされてしまうのだろうと反省した。

 

そこで、この頃は足元の靴に注目することにした。 これがまた面白い。 まず靴を見てその人の年齢を推測する。 次に少しずつ視線を上げていきボトムまでくるが、靴とボトムは必ず相関性がある。 そしてボトムからトップスへ・・だんだん期待が膨らむ・・・そして視線を合わさないよう気をつけながら顔を見る。
すべてがイメージ通りだと やったー! と一人で嬉しくなる。

海外の車内と比べ日本のJR車内の光景は統一感もあり日本らしさが出ていて面白い。

海外旅行から帰国すると、日本では手入れの行き届いた車が多いのに驚かされる。 電車内の日本人も国民性を表すかのように、手入れされたきれいな靴を履いている。 時々訪れる鎌倉は、外国人観光客が年々多くなっている。  欧米系の人は履きなれたスニーカーが多く、アジア系の人の靴はバラエティーに富んでいる。 先のとがったヒールにワンピースという組み合わせも見受けられるが、鎌倉の寺社は砂利道や階段も多くヒールは不向きである。

外反母趾の私が出かけるときはデザイン優先ではなく、多発する自然災害に備え長時間でも歩き続けられるようにタウンシューズにすることが多い。 

それぞれの靴からそれぞれの人生を推測するのは楽しく、どのような人の履物も気になってくる。
24日に来日し、各地に足跡を残したフランシスコローマ教皇の履物はどのような形をしているのだろうか。

教皇は、24日に被爆地の長崎、広島を訪れ、「核兵器のない世界は可能であり、必要である。核兵器は安全保障への脅威から私たちを守ってはくれない」と戦争の悲惨さと核兵器使用・保有の恐怖を訴えた。

自国第一主義がはびこるこの地球上で、国際機関もその役割を果たせていない。 被爆国日本を通して強力なメッセージを世界中に発信してほしいと、クリスチャンではない私も祈るばかりである。

2019年12月 「鎌倉文学散歩」

ウォーキングに鎌倉散策が加わってから2年が経った。
鎌倉文学館発行の「鎌倉文学散歩」を片手に始めた散策は、25回で一巡した。 訪れた寺社や切通しなどは100か所以上に上るだろうか。 2年間で25回だから誇れるほどのことはないし、2年という区切りに合わせるため12月は北鎌倉を中心に3回訪れた。

 

今月は、鎌倉でも由緒ある円覚寺、東慶寺、浄智寺、建長寺を訪ね、最終日は、年の瀬の柔らかな日差しを浴びながら、鎌倉八幡宮を参拝して今年を締めくくった。 社寺を訪ねる人は皆穏やかな表情をしている。 一巡と言ったが、三島由紀夫の「豊饒の海」の輪廻のようにスタート時点に戻ったことになる。

 


この文学散歩シリーズの編集元になる「鎌倉文学館」は、かつての加賀百万石の藩主前田家の別邸であり、三島由紀夫が「春の雪」で別荘のモデルとして描いていている。この格調高い建物は、1985年に鎌倉市が寄贈を受けて文学館として活用し、国の登録有形文化財にもなっている。

文学散策に的を絞って歩いてみると、鎌倉の風土や歴史も別の視点からとらえることができ、思わぬ発見もある。 芥川龍之介が新婚時代を過ごしたという由比ガ浜の古びた小さな元八幡を訪ねたときは、着物を着た芥川がふらりと現れそうな感覚がしたし、 寿福寺にある高浜虚子の墓所を訪ねたときは、墓所の周りを囲う岩屋に俳句を投函できるポストが彫られていたのを見て、思わず詠み人しらずの俳句を投函したくなった。 周りに誰もいないのを確認しながら、そんなことを思うだけでドキドキした。 中学の教科書に出ていた 「はなびらの 垂れて静や 花菖蒲」 という虚子の俳句を思い出しながら墓所を離れた。 

 

鎌倉には、歴史上の古い寺社や仏像などが多くみられ、歴史の町とされる一方、多くの文人が暮らし様々な作品にも取り上げられており、文学の町とも呼ばれている。 冊子に出てくる文人には名前すら知らない人もいるが、 これからはそれぞれの作品をゆっくり味わってみたいものである。 まずは4月12日まで鎌倉文学館で開催されている  「作家と歩く鎌倉長谷・稲村ケ崎方面」 に参加してみよう。 以下はパンフレットの紹介文である。

『鎌倉に訪れ、暮らし、そしてこの地を愛した文学者たちは、それぞれの鎌倉を作品に書きました。彼らの文学作品をとおし「鎌倉」を逍遥するシリーズ収蔵品展の第4回は、長谷・稲村ガ崎方面の魅力を与謝野晶子、有島生馬、川端康成、太宰治ら32人の文学者の目をとおし紹介します。』

楽しみである。