2024年1月 「竜年」

新しい年の幕開けは、凛とした空気のなかで新年を寿ぎ家族の平安を祈るものなのに、元日と2日、立て続けに日本列島を不幸が見舞った。元旦には最大震度7の地震が能登半島を襲い、家族が集うお屠蘇気分をぶち壊し日本中が震えた。翌2日には羽田空港の滑走路で、海上保安庁の航空機に日本航空機が衝突し炎上した。辰年の神様はどこに身を潜めたのだろうか。

 

追突事故を起こした海保機は能登に災害支援物資を運ぼうとしていたもので、乗員のうち機長を除く5人が亡くなった。一方、日本航空の乗客乗員は幼い子供も含め全員が無事に脱出することができた。乗員たちはこの緊急時に完璧にその任務を果たしたが、海外メディアは、炎上する日航機から乗客乗員379人全員が脱出できたことを「奇跡だ」と伝えた。能登地震での人命救助や救援は、熊本地震などを教訓にすすめられているが、極寒の避難生活は高齢者や持病のある人には厳しく、心身に不調をきたす災害関連死も増いている。

 

邪気を払うため成田山新勝寺に初もうでに出かけた。初めて訪れた成田山新勝寺は、成田市にある真言宗智山派の仏教寺院で、真言宗の大本山の一つである。山号は成田山で、不動明王信仰の一大中心地である。
2月の節分の豆まきで有名だが、初詣の参拝者も毎年300万人を超える関東屈指の寺で、社寺としては明治神宮に次ぎ全国2番目の参拝者数を誇っている。

 

寺の歴史を紐解くと、810年に弘法大師が嵯峨天皇の勅願により御本尊不動明王を敬刻開眼したとあり、1180年に源頼朝が平家追討を祈願し、1707年には京都嵯峨大覚寺直末となり、金剛王院室兼帯の令旨を受け成田山金剛王院新勝寺と称したとある。1928年に成田山公園を竣工し広大な敷地を誇る寺院となっている。 タイ人の観光客が多いのだろうか境内図にタイ語が並記されていた。

 

参道で名物の鰻をほおばった後、江戸情緒あふれる水郷の町として知られる佐原商家町を訪れた。佐原は、江戸へ食糧を運ぶ一大穀倉地帯として栄え、酒、味噌、醤油造りの醸造技術や、食文化が受け継がれ現在も江戸優りの食文化も継承している。古民家カフェーの中村商店に立ち寄り名物のさつまいものモンブランをいただいた。パイ生地に地元産の紅はるかを使った芋けんぴと生クリーム、その上にクリーミーな「生絞りモンブラン」がドレスを纏うように絞られ、パリパリのさつまいもチップスが飾られていた。栗のモンブランにも勝る美味しさだった。

 

 改めて一年の平安を願わずにいられない。

2024年2月 「銀座の喫茶店ものがたり」

2月は温暖差が激しい日が続いたが、この日はやさしい日差しの中を北鎌倉から鎌倉まで歩いた。道中、梅の香かおる明月院と臨済宗の大本山である建長寺に参拝した後、観光客で賑わう小町通りの路地を一歩入った奥にひっそりとたたずむ昭和レトロな喫茶店「ミルクホール」に立ち寄った。

 

「ミルク ホール」という名前からも昭和のにおいが漂ってくる。レトロおしゃれな外観の扉を開けると、思いのほか広い空間にジャズが静に流れている。 古い木の香りに包まれた店内にはどこか懐かしい家具や調度品が置かれている。私が座った席の横には友人宅にあるような木製の本棚が置かれていた。 棚に並んでいるのは、ドストエフスキー「地下生活の手記」 「ホーキングの新宇宙論」 高橋克彦「ゴッホ殺人事件」 「美しい日本のくせ字」 松村友視「帝国ホテルの不思議」 西岸良平「鎌倉ものがたり」などなど・・・。背表紙を追っていると友の家でくつろいでいるような気分になってくる。

 

注文したプリンアラモードが来るまでの待ち時間に松村友視の「銀座の喫茶店ものがたり」を手に取り読み始めた・・・ページを繰っていると、若き日にタイムスリップしたような不思議な気持ちになった。

 

プロローグには「贅沢な空気感の薬効」として7丁目の資生堂パーラーと資生堂パーラー サロン・ド・カフェが、その空気感とともに紹介されていている。18章では、“教文館カフェ”が「清逸な銀座のオアシス/心の彷徨をそそのかす空間」として紹介されていたが、こちらの想いを代弁するかのような記述がなされていて背中がゾクっとした。

 

店内の本は貸出可能らしく貸出ポケットがついていたが、家に戻りすぐに「銀座の喫茶店ものがたり」をネット注文した。この本は、銀座に点在する喫茶店の「いま」を松村友視が訪ね歩きタウン誌「銀座百点」に掲載したものを、2011年に単行本化したものだ。

 

 “CAFÉきょうぶんかん” からの抜粋
『銀座通りの風景の中で、四丁目にある“教文館ビル”は、さまざまな意味で特別な存在と言ってよいだろう、一九三三年に建てられた、アントニン・レイモンドの設計によるその建物自体もさることながら、教文館そのものの、キリスト教禁教の高札が下ろされた当初における誕生、文書伝道、メソジスト出版社、関東大震災、第二次世界大戦、戦後から現在・・・その時の流れの中でつねにつらぬかれてきた教文館の精神が、ビルの内側に包み込まれている。そのけはいが、教文館ビル一、二階の雑誌や書籍を販売する書店をおとずれるたび、私に微妙な緊張を与えたものだった。
そのかすかなる緊張は、書店内に流れる清逸な雰囲気が、私の躰に棲みついている濁りの虫を、そっとたしなめてくれるためなのだろう。

ところが、その書店の上階にあたる、四階の喫茶コーナーである“CAFÉきょうぶんかん”の天井や壁の黒い色調、さりげなく置かれた書籍、小さい額、鉢植え、写真、スタンド、照明などの中にしばらく身を置いているうち、道連れにしているはずの緊張感が、私の躰から嘘のように抜けていることに気づいた。それは、そこにただようやわらかい空気が、大都会の喧騒の中を歩いてきた私のセンスを、そっと染め直してくれているせいにちがいなかった。

    

窓際の席で、雨の降る外の風景をながめ、雨ごしに大都会のど真ん中を歩く人々を打ち眺めていれば、時もまたしだいににじんでゆき、自分がどこにいるかもつかめぬ境地に、しばしひたることができるのではなかろうか。
“CAFÉきょうぶんかん”は、都会人がしばし迷子の心を味わうにふさわしい、まことに不思議な隠れ家なのである。』

   

教文館洋書部にわずかな期間勤務したことがあるが、懐かしい思い出は尽きない。ここ数年は鎌倉散策を楽しんでいたが、これからはこの本に紹介された四十五店の喫茶店をゆっくり時間をかけて訪ねてみようと思う。 新しい出会いの予感がする。

2024年3月 「紫式部」

年明けから大河ドラマ「光る君へ」が始まった。主人公の紫式部は、平安時代中期に活躍した歌人であり、世界最古の長編物語の「源氏物語」の作者である。歌人としては、『百人一首』の和歌が知られており、『紫式部日記』(18首)、『紫式部集』、『拾遺和歌集』などにも和歌を残している。

 

百人一首の紫式部の和歌
『めぐり逢ひて 見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな』
(訳)久々に再会できたと思ったのに、それが幼馴染のあなたなのかどうか雲に隠れる夜中の月みたいに、はっきりわからないうちに帰ってしまった。

 

同時代の清少納言の和歌
『夜こめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ』
(訳)まだ夜が明けない内に、鶏の鳴き真似をして函谷関の番人を騙しても、逢坂の関は開きません。私だって騙されて戸を開けるようなことは絶対しません。

2首を比べると、紫式部の和歌の方が奥ゆかしく好みである。

 

根本知さんによる揮毫『光る人へ』に、いにしえの雅を感じたが、恋人同士のまひろ(吉高由里子)と道長(柄本佑)が惹かれ合っているようには見えず残念な気がする。道長は光源氏のモデルとされているが、この後、まひろは道長のサポートを受けながら源氏物語を書き進めていく。

 

さて、老化防止になるだろうと百人一首を1日1首ずつ 番号、作者、和歌を覚えることにした。月曜日から金曜日までで5首、土日はその週の復習に充てている。いざ始めてみると難しいのは作者だ。何とか関連付けて覚えようと試みるが、凡河内躬恒や皇嘉門院別当など初めて聞くような名前に難儀している。覚えたと思っても3歩歩くと、もう忘れている。それでも継続することに意義があると、なんとか続けている。

 

今年の桜の開花は早いと言われていたが、肌寒の日々が続き横浜の開花日は3月30日、満開は4月5日と大幅に遅れた。百人一首には桜の歌が5首ある。

9番 小野小町
『花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』 (古今集)

(訳)花の色は長雨に打たれて移り変わってしまいました。見る人もないままいつの間にか。私がこの世の中について思いめぐらし、ぼんやりと眺めている間に・・・。

 

33番 紀友則
『久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ』 (古今和)

(訳)こんなに日の光が降りそそいでいるのどかな春の日なのに、どうして落着いた心もなく、桜の花は散り急いでしまうのだろうか。

 

61番 伊勢大輔
『いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に にほひぬるかな』 (詞花集)

(訳)とおい昔、都であった奈良で咲き誇っていた八重桜が、今日はこの宮中(九重)で美しく輝いています。

 

66番 前大僧正行尊 
『もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし』 (金葉和歌集)
 (訳)山桜よ、ともによろこびを分かち合おうじゃないか、ここにはお前よりほかに知人もいないのだから。
思いがけないところで山桜に出くわした感動を詠んだ歌だと思われます。桜を一人の人間として同じ空間を共有しあうつかの間の喜びを謳った歌です。

 

73番 大江匡房 
『高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ』 (後拾遺集)

(訳)はるか遠くの高い山の峰にも、やっと桜が咲いた。里近くの山の霞よ、桜の姿をよく見たいから、どうか立たないでおくれ。大江匡房の桜は、遠くから眺める桜です。「霞」は春に立つ霧のことです。

 

いよいよお花見の本番を迎え、日本中がそわそわしている。今年は、開花予想がつぎつぎ変わり気を揉んだが、空気までもが桜色に染まる日をドキドキしながら待っている。

2024年4月 「三国志」

テニスをやめてからWOWOWでテニス観戦するのが習慣になった。1月中旬の全豪オープン、5月下旬の全仏オープン、6月下旬のウィンブルドン、8月下旬の全米オープンの四大大会以外でも時差を気にしなければほぼ一年を通して試合を楽しむことができる。

 

日本人選手のダニエル太郎、西岡良仁、大坂なおみなども1・2回戦負けが多く、なかなか成果が出せていない。かつて世界ランキング4位だった錦織圭も怪我の回復が遅れていて残念だ。そこで、イタリアの若手のホープシナ―、ギリシャの貴公子チチパス、GS優勝を期待されているドイツのズべレフ、少年時代から応援しているオーストラリアのデ・ミノー、怪我の復帰後に今季限りの引退を表明しているスペインの英雄ナダルなど・・・グローバルに応援しながら楽しむことにしている。

 

テニス観戦をするうちにオンデマウンドでドラマや映画も観るようになった。日本の作品に比べ海外のドラマはスケールが壮大で面白い。日本のドラマには面白いものが少ないと思っていたが、「文化時評」によるとドラマ制作費で米韓(中)とは圧倒的な差があるという。中国の歴史時代劇である「永楽帝」「康熙帝」「三国志」などはそのスケールの大きさに圧倒される。

 

「永楽帝」
明朝の太祖・朱元璋の四男で燕王の朱棣は、類まれな軍略家として成長する。太祖の崩御後に永楽帝となり、都を北平に遷都し明朝繁栄の礎を築く。


「康熙帝」
黄河を治めた清の皇帝康煕帝と治水に奔走する男たちの壮大な物語。不正や汚職のはびこる朝廷で、治水の大工事に挑む姿が圧倒的スケールで描かれている。

 

「三国志」

180年頃 - 280年頃の100年の亘る後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代の諸国の興亡の歴史。中心になった蜀・魏・呉の三国が争覇した三国時代について描かれている。

 

三国時代に興味はあるものの、登場人物が多過ぎてよく理解できずにいたが、図書ボランティアの本棚で、世界の教養をストーリーで学べると銘打ったマンガ「三国志 I 劉備と諸葛孔明」「三国志 II 赤壁の戦いと三国の攻防」を見つけた。これは吉川英治原作の「三国志」を石森プロが漫画化したものだ。歴史は勝者によって造られると言われるが、群雄割拠時代の殺戮の多さと王朝交代が嘘と騙しにより創られて来たという歴史は事実なのだろう。マンガのお陰で三国時代を大まかに把握することができたのはうれしいことだ。中心人物は劉備玄徳と諸葛孔明である。

 

【劉備玄徳】
劉備玄徳(161年- 223年) 後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。
黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛孔明の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位し蜀漢を建国した。その後の蜀、魏、呉による三国鼎立の時代を生み、どのような身分の人も差別せず貧困者には経済的支援をするなど、人々から慕われるリーダーになっていく。劉備は諸葛孔明の案により「天下三分の計」を実行すべく曹操と戦うことになるが、『三国志』でも有名な赤壁の戦いへと繋がっていく。


赤壁の戦いに勝利し、荊州の支配権を握って独立を果たし、時代は三国時代に入る。 221年、劉備が60歳を迎える頃に群臣たちに推挙され、蜀漢を建国し初代皇帝の座つくが 、呉国の裏切りに遭い大敗して62歳で亡くなる。

 

【諸葛孔明】
諸葛孔明(181年-227年)山東省で生まれ、聡明として知られる。 207年、知略に富んだ者を探していた劉備が訪ねてくるが、留守にしているにも関わらず自ら3度も訪れてくれたことに感激して劉備の家臣となり「天下三分の計」を説く。

 

赤壁の戦いの交渉により孫権と同盟で結び、曹操軍に大勝した劉備は天下への第一歩を踏みだす。 蜀を手に入れ知将として活躍した孔明は、劉備から軍師将軍、左将軍に任じられ、軍政と人事を担当することになる。

 

221年、劉備が蜀の帝位につき、孔明は丞相(政治を担う最高責任者)に任命される。劉備が亡き後は、息子の劉禅に忠義を尽くす。 227年、蜀の国力回復に成功した孔明は、漢を再興するために魏との戦いに挑むが、魏を滅ぼすまでにはいたらず、5回目の五丈原の戦いで病に倒れて亡くなる。

 

マンガを侮っていたけれど マンガの力はすごい!!

2024年5月 「古都を訪ねて」

新緑に染まる奈良と京都を訪ねた。 奈良では明日香村や興福寺、京都では洛北の大原や修学院離宮、源光庵などを巡り、祖母や父が眠る東本願寺では、これまでかかわってきた人たちとの人生に思いをはせた。

 

【明日香村】

近鉄吉野線の飛鳥駅に降り立ち明日香村観光協会推薦で遺跡巡りに便利だという周遊バスの一日券を買ったが、どこからでも自由に乗り降りできるという「かめバス」は、土日を除くと便数が少なく、のどかな田園風景を眺めながら・・・てくてくと歩くことになった。

 

(高松塚古墳)  藤原京期の古墳で、直径23メートル(下段)および18メートル(上段)、高さ5メートルの二段式の円墳。1972年に極彩色の壁画が発見され、一躍注目された。被葬者は天武天皇の皇子説などがある。「高松塚壁画館」では、原寸原色で再現された群像図や四神図・星宿図や飛鳥美人に会うことができた。

 

(天武 持統陵)天武天皇とその皇后である持統天皇の合葬墳墓。直径50m、高さ6.36m、古墳の石室は八角形で、持統天皇は天皇として初めて火葬された。

 

(亀石)益田岩船や酒船石と並び、飛鳥の石造物の代表的な遺跡。

 

(石舞台古墳) 国営飛鳥歴史公園内にある日本最大級の方墳。墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な両袖式の横穴式石室が露呈している。築造は7世紀初め頃、30数個の岩の総重量は約2300トン。7世紀初頭の権力者で大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父、蘇我馬子の墓といわれている。

 

(岡寺)西国三十三所観音霊場の第七番札所として西国霊場草創1300年来、第七番の観音様として信仰を集めており、また日本最初やくよけ霊場としても知られている。

 

【奈良】
(興福寺)寺のもとになる山階寺が京都に建ったのは669年、中臣鎌足が病気にかかった時、妻が夫の回復祈願に建立した。平城京に移築後に藤原不比等が「興福寺」と名付けた。

 

(興福寺 国宝館)阿修羅像を始め数多くの国宝が納められている。 先月、上野の国立博物館で出会い損ねた阿修羅像だが、本家で会うことができ嬉しい。阿修羅は天界の神だったが、帝釈天に戦いを挑み続けるうちに戦闘神となる。戦いに破れ修羅道に落とされが、釈迦の説法を聞き改心し仏法や仏教徒を守る神となる。阿修羅の顔は苦悶の表情にも悟りの表情にも見える。

 

(春日大社) 神山である御蓋山ミカサヤマ(春日山)の麓に768年、称徳天皇の勅命により4神の本殿が造営された。

 

【洛北】
(大原 三千院)  最澄が延暦寺を建立する際に比叡山の東塔に草庵を建てたのが起源とされる。その後各所を転々とし、現在の地へ落ち着いたのは応仁の乱以降。1871年に三千院と改称された。

 

(実光院・宝泉院・来迎院大原の地は、天台宗には欠かせない仏教声楽の聖地で、これらの寺は天台声明の道場や宿坊とされていた。 宝泉院の「樹齢700年を誇る五葉松と、趣の異なる3種の日本庭園」がみどころ。


(寂光院) 594年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立された尼寺。第3代の建礼門院は、源平の合戦に敗れた後、寂光院に閑居し壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔いながら終生を過ごした。

 

(修学院離宮) 17世紀中頃、後水尾上皇によって造営された。上・中・下の3つの離宮からなり、借景の手法を採り入れた我が国を代表する庭園。上離宮背後の山、借景となる山林、祖霊三つの離宮を連絡する松並木の道と両側に広がる田畑を有する。天皇家ゆかりの広大な御所や離宮を訪ねると、世間で論議されている皇位継承問題について考えさせられた。

 

(源光庵)悟りの窓の円型は「禅と円通」の心を表し、円は大宇宙を表現し、円迷いの窓の角型は「人間の生涯」を象徴し、生老病死の四苦八苦を表している。

 

(光悦寺) 江戸時代の芸術家である本阿弥 光悦が徳川家康よりこの土地を与えられ、様々な工芸を推進する場所として発展させた。光悦の死後、光悦寺となる。境内には7つの茶室が建てられており、鷹峰三山と楓の木々を借景とするその景色が美しい。

 

(常照寺) 桜や紅葉の名所としても知られている。境内には吉野太夫が寄進した吉野門や、灰屋紹益と吉野太夫との比翼塚がある。

 

(大徳寺) 1315年建立された臨済宗大徳寺派の大本山。応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興をさせ、桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔うために総見院を建立し、戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。 前田家の菩提寺である興臨院と千利休が作庭した黄梅院を拝観した。

 

【東本願寺】
最後に、父や祖母が分骨されている浄土真宗「真宗大谷派」の本山である東本願寺にお参りした。

 

「死をみつめると生が問われる」「人と生まれたことの意味をたずねていこう」「人生に正解なし 人生すべて無駄なし」の教えが書かれていたのをみて、哲学者森岡正博の次の言葉を思い出した。 人は皆、「生まれてきて本当によかった」と心の底から思えるような人生を生きたいと願っているが、果たしてどうだろうか。「いったん生まれてきた以上、自分が生まれてきたことを否定してもその先には何も開けない。私は未来に開けていくような別の道を探したいと考えているのである。」

2024年6月 「花の寺」

鎌倉の長谷寺は地元の人たちに「長谷の観音」と呼ばれ親しまれている。寺宝により寺の創建は736年で鎌倉時代以前であることが分かっている。鎌倉幕府が成立した1185年より随分歴史を遡ることになる。

 

鎌倉にはウォーキングがてらよく出かけている。その中でも長谷寺は季節の花が美しく、高台から見渡せる相模湾の景色には心が癒される。四季折々の花々が古刹に彩を添え、花の寺とも言われているが、2500株以上植えられた色とりどりの紫陽花は見事である。昨年はあじさい路へ入るのに1時間半待たされたが、晴天に恵まれたこの日は5分ほどで入ることができた。

 

何度も訪れている長谷寺だが、本堂の十一面観音菩薩横に小石とペンが置かれているのに初めて気付いた。説明文を読んだら、置かれている小石に「般若心経」の漢字を一文字づつ書いて納める「一石一文経」だと知った。目の前に開かれたカードに書かれていたのは「界」という字。箱の中に入れられた中から書きよさそうな小石を見つけ「界」としたため、次の人のためにカードをめくった。次の漢字は「乃」だった。般若心経のどの部分にあたるのかと家に戻り調べると五分の二の辺りに書かれている無限界乃至無意識界であると分かった。

 

その意味は『この世のあらゆることが空だから眼に見えるこの世界も、心の中の世界もない。私たちが眼で見ているこの世界、そして眼で感じた景色、景色を見て生じた心の動きこれも全部、「空」。「無意識界」と言うのは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識という言葉をまとめていて、要は心の動きも「空」だから実体がないということ。』 分かったようでよく分からないがなんとも奥深い。信仰心のあるなしにかかわらず、見知らぬ人が一文字づつに関わり、全文を書き上げるというのは楽しい。一文字を書いただけなのに心が少し満たされた気がするのはなぜだろうか。

 

夏目漱石の「行人」は日本人の宗教観を表していると言われている。漱石は、登場人物に「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。 僕の前途にはこの3つのものしかない」と語らせている。人生の究極の生きざまは、これ以外に選択の余地がないと言っているのだ。学生時代は、なるほどと共感していたが、今ではそんな風には思えないファジーな自分がいる。

2024年7月 「同窓会横浜支部」

学生時代のことや研究室でお手伝いをしていた日々を懐かしみ、案内に誘われ初めて同窓会の横浜支部総会に出かけた。扉をたたくと新しい出会いがあるようなそんな期待感もあった。


当日の出席者は57名で中心メンバーは50歳前後の方々だが、高齢順でみると私は16番目。それほど場違いでないことに内心ほっとした。

 

会場はナビオス横浜。総会後には茶菓子がふるまわれ、東大名誉教授の橋元先生による講演「スマホの罪と罰」を拝聴した。先生のご専門は、情報社会心理学やコミュニケーション。日本人の情報行動や情報環境の変化、メディア利用が乳幼児や青少年に及ぼす影響などについて研究をされていて、なかなか興味深かった。以下は概要

 

*ネットは多くの有用な知識を提供してくれるが、この「知識の外注化」は「知恵」を構築するモチベーションを失わせる。
*ネット社会では、接触する情報に偏りが生じ、同じ方向性の考えを持つ人々だけが交流しがちになる。
その結果、社会の分断化が促進され議論が進まず、健全な民主主義が成熟しない懸念がある。(トランプ元大統領の例)
*ネットでは「集合知」のメリットが活かされない領域がある。
*幼児期を含めた若年層の問題。生きるために必要な知識が十分に蓄積されない。
話を聞き終え、特に幼児期における問題は今後ますます深刻になるのではないかと思われた。児童精神科医である宮口幸治医師による「ケーキを切れない非行少年」にも通じるものを感じた。

 

自主グループの紹介などがあり、次回からSSセミナー(読書会)に参加させていただくことになった。紹介文には『月に一冊、新書(中公新書・岩波新書・PHP新書等々)を読んでいます。東京女子大学の卒業生らしく、ちょっとスマートで和やかな、30年以上続いている読書会です。』と書かれている。
「老い」「食糧危機」「社会情勢」など興味のあるテーマを中公新書、文春新書、PHP新書等の新書で読むのはテーマがはっきりしていて学生時代に戻るようで楽しみだ。

 

講演会後の質疑応答で、Zoomで外国の方々と交流し、フリーセルのゲームを楽しんでいると話す方がいた。帰宅後、早速フリーセルを試してみた。これがなかなか面白い、脳トレにはちょうどいいが、講演会に出かたのにゲーム中毒になってはやぶ蛇だ。

2024年8月 「パリ五輪」

開催前のパリ五輪は、警備や環境面などが懸念されていた。前日には鉄道網が放火の被害に遭い、大雨の影響でトライアスロンが行われるセーヌ川の水質は基準に達せず競技が延期され、太陽を利用して「水を輝かせる」という計画は実現しなかった。 だが、競技が始まるとスポーツの持つ魅力にどっぷりはまった17日間になった。

 

7月26日の開会式では各国の選手団が船に乗りセーヌ川を進み、橋や川岸、川沿いの建物の屋根の上などで繰り広げられるパフォーマーたちの前を通り過ぎ華やかさを演出した。最後の聖火ランナーが気球型の聖火台に点火して花の都パリでのオリンピックが始まり、1万500人を超す選手が32競技に参加するビッグイベントになった。

 

印象に残った競技


【 2位の中国に0.532点差で競り勝った男子体操団体戦】
男子団体総合決勝では、橋本大輝、萱和磨、谷川航、岡慎之助、杉野正尭の日本選手が2016年リオデジャネイロ五輪以来、2大会ぶり8度目の金メダルを獲得した。 結果は、6種目合計259.594点で、2位中国に0.532点差で競り勝つという大逆転劇だった。 東京五輪「銀」で予選2位の日本は2種目のあん馬でエース橋本が落下し、最後の鉄棒を残して首位中国と3.267点の大差だったが、杉野、岡、橋本が好演技をつなぎ、落下が重なったライバルの中国を逆転した。

 

キャプテン菅の「絶対にあきらめるな」の言葉に、それぞれが力の限りを出し尽くした。一方、首位の中国は最後の鉄棒で2人が落下し、信じられない逆転劇が待っていた。

 

【ストリートの堀米の連覇 】
「最後の1%に賭けた。 逆襲信じた必勝技で王者帰還!!」の文字が新聞に躍る 。男子ストリート の堀米雄斗(25歳)が2連覇した。決勝の最終試技で暫定7位から逆転し、2位イートン(米国)に0.10点差の281.14点。日本は初採用の東京五輪に続く男女制覇となった。最後まで自分を信じた勝利だった。

 

【柔道の阿部一二三・詩】
女子52キロ級の阿部詩は、世界ランキング1位のディヨラ・ケルディヨロワにまさかの2回戦敗退となった。現実の敗戦を受け止めきれない号泣に会場から「ウタ コール」が響いた。

 

妹の悪夢の敗戦から7時間後に兄の一二三がマットに上がり、2回戦、準々決勝と積極的な柔道を貫き2戦連続合わせ技一本で準決勝の舞台に進んだ。そして決勝の舞台では、最後まで自分の柔道を貫き合わせ技一本を奪い、東京五輪から無敗で連覇を達成した。

 東京五輪から3年間、ともに連覇を目標として奔ってきたが、史上初の兄妹同日五輪連覇の夢はかなわなかった。兄は会談で、妹は「最強のモンスター」だと語った。二人のモンスターの4年後の活躍が楽しみだ。

 

マッチポイントを奪いながら残念だった競技

 

  1.  【男子バレーボール 】

準々決勝のイタリア戦は上高地の宿で応援した。TVでは見られずIpadの小さな画面に声援を送った。72年ミュンヘン大会以来、52年ぶりの五輪金メダルを目指したが、強豪イタリアをマッチポイントまで追い詰めながら、準々決勝で大逆転を許し8強で姿を消した。

 

【テニス】
錦織・ダニエルペアは一回戦でイギリスのマレーとエヴァンスと対戦したが、5回もマッチポイントを取りながら逆転負けした。錦織は怪我から復帰してからも順調とは言えないが、西岡・ダニエル太郎・大坂なおみと共にまだまだ頑張って欲しい。 日本テニス界に激励のエールを送りたい。

世界ランキング3位のジョコビッチ(セルビア)は2位のアルカラス(スペイン)に7-6、7-6で競り勝ち、五輪金メダルと4大大会全制覇を合わせた「生涯ゴールデンスラム」を達成した。アンドレ・アガシ(米国)ラファエル・ナダル(スペイン)に続き男子3人目の快挙はさすがである!!

 

オリンピック期間中、2年ぶりに訪れた上高地では大正池や明神池を散策した。上高地には7~8回も訪れているだろうか、温泉の豊かな定宿も決まっている。いつ訪れてもその雄大な景色は、心の隅々まで涼風で満たしてくれる。28日からはパラリンピックが開幕する。特に、テニスの小田凱人と バトミントンの梶原大暉 の活躍が楽しみだ 。

2024年9月 「熊野古道と高野山」

27日から4日間紀伊半島を巡った。紀伊半島の先端は道が狭いうえカーブが多く、個人旅行ではハードルが高いと言われ「高野山と熊野古道を巡るツアー」に参加した。
 
【高野山 奥の院大師御廟】 
奥の院ではガイドの案内で巡ることができた。奥の院は高野三山に囲まれた山深い静かな場所にたたずむ弘法大師の御廟。835年3月21日、弘法大師空海は62歳で即身成仏としてここ御廟に入定したが、今も生きて瞑想を続けているとされ一日2回、食事が届けられている。

 

杉の大木に囲まれた表参道には徳川家、加賀前田家などの各大名や有名企業の墓石など20万基以上が並び、時代を超えた信仰の深さをうかがうことができた。灯籠堂を出て御廟に参拝後、灯籠堂の地下へ入ることができた。ここには全国から献上された16000余りの燈籠が納められている。

 

7年前、旅する予定でとん挫した計画では、高野山ケーブル「天空」を利用して中腹にある宿坊に泊まり、奥の院に参拝するというプランだったが、今回はバスツアーのため「中の橋」からの手軽な参拝になった。

 

【熊野那智大社】 今年は世界遺産登録ニ十周年
田辺市の熊野本宮大社、新宮市の熊野速玉大社とともに熊野三山の一社として、 全国約4,000社余ある熊野神社の御本社でもあり、日本第一大霊験所根本熊野三所権現として崇敬の篤い社。  


サッカーの本代表のマーク「八咫烏」は、熊野の神様の使いである三本足の烏。「八咫烏」は、より良い方向へ導く導きの神様とされ、熊野那智大社の境内にある御縣彦社(みあがたひこしゃ)で祀られている。

 

【熊野速玉大社】 
境内にそびえる樹齢千年のナギの大樹は熊野権現の象徴としての信奉が篤く、古来から道中安全を祈り、この葉を懐中に納めてお参りすることが習わしとされている。

 

【那智の滝】 日本三大滝

熊野那智大社の別宮である飛瀧神社の御神体として崇められている。観光したのは「一の瀧」と呼ばれる一番手前の滝で、上流にある「二の瀧」「三の瀧」と合わせて「那智大滝」と総称されている。当日は水量も多く迫力満点だった。青岸渡寺の三重塔・仁王門は塗り替え工事中で、那智の滝の横に大きな垂れ幕がかけられていて、写真撮影のスポットになっていた。

 

【熊野三山】熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称。熊野三山の信仰は、100度に及ぶ上皇の熊野御幸として花開き、鎌倉時代以降は庶民にも広まった。 熊野三山巡りとは過去・現在・未来を巡る旅とのことだった。熊野以外では白浜三段壁、円月島、平家物語壇ノ浦合戦の鶏合せの故事に由来する闘鶏神社、東洋のエーゲ海(?)と言われている白崎海洋公園を巡った。

 

低気圧と台風の狭間を抜けての観光だった。串本では早朝、土砂崩れ・洪水の緊急アラームで起こされ慌てたが、何とか無事に旅を終えることができたのは幸せなことだ。

2024年10月 「今日が一番若い日」

27日に衆議院選挙が行われ、自民党が大敗した。
就任の前と後とで一貫性を欠く石破茂首相の言動は信じがたいものだった。争点だった政治と金にはあいまいに幕が引かれ、論戦を避けるように国会は突然に解散された。政局はこれから一気に流動化するが、流れる着く先はどこになるのだろうか。

 

ダ・カーポのコンサートにお誘いを受けて出かけた。

タイトルは「未来への贈り物」 ― 今日が一番若い日 ―


ダ・カーポは榊原まさとし・広子夫婦と娘のフルート奏者麻里子の3人で構成されているが、会場に入りパンフレットを開くと、ギター奏者のまさとしが体調不良で出演できなくなったとのお詫びのメッセージが挟まれていた。 9月に心臓の不整脈が原因で手術をしたがまだ体調が万全ではなく、ドクターストップがかかっているとのことだった。

 

童謡やスタジオジブリのトトロやラピュタ、「宗谷岬」や「結婚するってほんとですか」など懐かしい曲のメドレーを楽しんだが、演奏会の後半、本日のスペシャルゲストで~す!!とのコールで、なんとまさとしが登場した。拍手喝采の中、「今日が一番若い日」が歌われた。  その歌詞は


今日が一番若い そう生きている限り
今日が一番若い ほらあなたも私も
遠くは見えないけど 近くの幸せ見つけた
遠くは歩けないけど 足元の春に気づいた
人の名前が思い出せない だけどイヤなことも忘れた
後悔はあり過ぎて 今はどうでもいい
泣いても笑っても悩んでも
今日が一番若い まあちょっとキツイけど
今日が一番若い でも無理はしないで
一番大切なもの あなたがくれるその笑顔
これからはもう我慢しないで やりたいことやりましょう
枯れ木とあきらめないで パット花を咲かせましょう
今日も 明日も あさっても
だから今日を精いっぱい 生きてゆきましょう
今日が一番若い イエイ! 恋をしましょう
今日が一番若い ワオ! ときめきましょう
そう 生きている限り

 

人生の終盤を迎える人への応援歌だ。なるほどそうだと思いながら、医者でありエッセイストの久坂部羊の著書「人はどう老いるのか」を思い出した。
『いつまでも元気で長生きというのは、多くの人が求めることですが、ここには論理矛盾があります。長生きするということは、すなわち老いるということで、老いれば元気ではいられないのです。老いれば機能が劣化する分、あくせくすることが減ります。あくせくしても仕方がないし、それで得られることも大したものではないとわかりますから。そういう知恵が達観に通じるように思います。

・・・実は今がいちばん幸せ・・・
幸福な人は文句を言いません。幸福かどうかは自分が感じることですし、すべては比較の問題ですから、どんな状況でも人は幸福にも不幸にもなるのです。実は今がいちばんなんだと気づけば、これからどう老いるべきかということも考えずにすむでしょう。』

 

コンサートはアンコール曲「野に咲く花のように」で閉めくくられた。この日は、それぞれが心に温かい贈り物をもらって会場を後にした。