浄光明寺

扇ガ谷にある真言宗泉涌寺派の寺で、開基は六代執権北条長時です。北条氏や足利氏とゆかりの深い寺で、足利尊氏は後醍醐天皇に対し挙兵する際この寺に籠ったと伝えられています。

 

浄妙寺の付近には、中村光夫、里見弴、中戸川吉二が住んでいました。

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鶴岡八幡宮(鎌倉八幡宮)

鎌倉武士の守護神社で、鎌倉初代将軍、源頼朝ゆかりの神社です。三大八幡宮の一つで、境内は国の史跡に指定されています。

 

鎌倉時代を描く作品

平家物語、義経記、永井路子「源頼朝の世界」「北条政子」、海音寺潮五郎「蒙古来る」、源実朝「金槐和歌集」、太宰治「右大臣實朝」など

ゆかりの文人  林不忘、小林秀雄、大佛次郎、今日出海、海音寺潮五郎 

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荏柄天神社

菅原道真を祀る神社で、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並ぶ日本三大神社の一つです。

 

長治元年(1104年)に創建され、源頼朝が鎌倉幕府を開く際に鬼門の守護社としました。その後、徳川家康が豊臣秀吉の命により社殿の造営を行いました。


ゆかりの文人  尾崎迷堂、北畠八穂、深田久彌、菅忠雄 など

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鎌倉宮

後醍醐天皇皇子の護良親王の終焉の地で、親王が主祭神です。 護良親王の通称である大塔宮(おおとうのみや)にちなみ、大塔宮(だいとうのみや)とも呼ばれています。

毎年10月に境内の特設能舞台で薪能が奉納されます。

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覚園寺

鎌倉幕府執権北条家歴代の尊崇を集めた真言宗の寺です。 ご本尊は薬師三尊、開基は北条貞時、開山は智海心慧です。

 

境内および周辺は自然が保全され、昔の鎌倉の面影を最もよく残しています。境内は国の史跡に指定されています。

 

ゆかりの文人  蒲原有明、川端康成

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永福寺跡(ようふくじあと)

鎌倉時代初期、源頼朝が中尊寺の二階大堂を模して建立しました。鶴岡八幡宮、勝長寿院と並ぶ当時の鎌倉の三大寺社の一つでしたが、何度も大火に見舞われた廃寺となりました。

 

寺跡は国の史跡に指定されていて、世界遺産候補となっている古都・鎌倉の構成資産の一つです。

ゆかりの文人  久米正雄、神西清など

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瑞泉寺

臨済宗円覚寺派の寺で、ご本尊は釈迦如来です。開基は二階堂道蘊、開山は夢想疎石です。

 

この辺り一帯は紅葉ヶ谷(もみじがやつ)と呼ばれる谷戸に位置しています。地名にもなっている紅葉の名所としても知られていますが、水仙、梅、つつじ、牡丹、マンサクなど季節ごとの花で彩られ、花の寺とも言われています。

 

文学碑   吉野秀雄、山崎方代、久保田万太郎、大宅壮一

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杉本寺

鎌倉幕府以前の天平三年(731年)に行基が開山した、鎌倉最古の寺です。

鎌倉幕府が開かれる約500年前、平安時代初期に造営された天台宗の寺で、本堂は光明皇后により建立されました。

 

三体の十一面観音像をご本尊としています。苔むした階段や南北朝時代の戦いの死者を弔った五輪塔群などがあります。

 

ゆかりの文人  松本たかし、草鹿外吉、長田幹彦 など

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浄妙寺

鎌倉五山の第五位のお寺で、臨済宗建長寺派に属します。ご本尊は木造の釈迦如来坐像で、開基は足利義兼、開山は退耕行勇です。

 

以前は広大な寺地と23箇院の塔頭を有していました。

寺の奥にある石窯ガーデンテラスでは、イングリッシュガーデンを眺めながらアフタヌーンティが楽しめます。

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報国寺

臨済宗建長寺派の寺で、ご本尊は釈迦三尊です。 境内には約2千本の孟宗竹の竹林があり、竹の寺とも言われています。

 

歌碑   木下利玄、方丈・新田合戦追悼歌碑

 

寺領内には、川端康成、林房雄などが住んでいたことがあり、川端康成は、この山あいの音なき音を「山の音」と表現しました。

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朝比奈切通し

鎌倉七切通しの一つで、仁治元年(1240年)、執権北条泰時によって六浦港と鎌倉の中心街を結ぶ重要な道路として計画されました。

 

「朝比奈」という名は、朝夷奈三郎義秀がこの切通しを一晩で切り開いたという伝説からきていますが、実際は1240年に和田一族を滅亡させた、北条氏が開発しました。

近くの鎌倉霊園に眠る文人

川端康成、里見弴、竹山道雄、堀口大学、山本周五郎など

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妙本寺

日蓮宗の寺で、日朗を開山として文応元年(1260)に創建されました。もとは比企能員の屋敷でしたが、比企一族は、北条氏を中心とする軍に攻め滅ぼされました。


日蓮上人と比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが、妙本寺の始まりです。境内には日蓮聖人鎌倉開教聖地の碑があります。

 

仙覚万葉集研究の碑、田辺松坡詩碑があります。

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名越切通し

名越切通は、鎌倉市南東部から逗子市に抜ける道で、鎌倉七口の一つに数えられている国の史跡です。

 

かつては鎌倉と三浦半島を結ぶ要路の一つで、戸塚宿から鎌倉を経て浦賀へ続く浦賀道の一部でした。 切通を含む名越路は、南側にある小坪路とともに鎌倉から三浦半島へ連絡する数少ない陸路でした。地域名ともなっている「名越」の名は、この道が峻険で「難越」(なこし)と呼ばれたことに由来すると言われています。

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