稲瀬川が由比ガ浜に流れ込む海岸道路にあります。石碑の後ろが由比ガ浜です。
地元の青年会により建てられた石碑で、ここが万葉集の美奈の瀬川の地であると刻まれています。現在の稲瀬川は細々としていて当時の面影はありません。
万葉集14巻-3366にある作者不詳の相聞歌です。
ま愛(かな)しみ さ寝(ね)に吾(わ)は行く 鎌倉の
美奈(みな)の瀬川(せがわ)に 潮満(しおみ)つなむか
稲瀬川が由比ガ浜に流れ込む海岸道路にあります。石碑の後ろが由比ガ浜です。
地元の青年会により建てられた石碑で、ここが万葉集の美奈の瀬川の地であると刻まれています。現在の稲瀬川は細々としていて当時の面影はありません。
万葉集14巻-3366にある作者不詳の相聞歌です。
ま愛(かな)しみ さ寝(ね)に吾(わ)は行く 鎌倉の
美奈(みな)の瀬川(せがわ)に 潮満(しおみ)つなむか
稲村ケ崎公園から見た七里ガ浜と江ノ島です。
稲村ケ崎は、鎌倉の海岸線を由比ガ浜と七里ガ浜に分ける岬で、鎌倉に通じる要塞の一つで、新田義貞の鎌倉攻めで名高い古戦場です。新田義貞は、黄金の太刀を海中に投じて龍神に退潮を祈願し、現れた干潟に乗じて鎌倉に乱入しました。
公園内には鎌倉攻めの故事を詠んだ明治天皇歌碑、逗子開成中学生のボート遭難の碑、ドイツの細菌学者コッホの記念碑があります。
この辺りにゆかりの文人
阿仏尼、中村光夫、野口富士男、石塚友二、三好達治、有島生馬、西田幾多郎
七里ガ浜と腰越を分ける浜に突き出している小動崎の上にある神社で、源頼朝に使えた佐々木盛綱が1185年に創建しました。風なくても美しくゆらぐ松があったことから小動(こゆるぎ)と名がつけられました。
太宰治はこの小動崎で心中を図りましたが、この事件を題材にして「道化の華」を書いています。
「道化の華」より
その前夜、袂ケ浦で心中があった。一緒に身を投げたのに、男は、歸帆の漁船に引き上げられ、命を取り留めた。けれども女のからだは、見つかれぬのであった。
腰越にある真言宗大覚寺派の寺院。江ノ島電鉄の腰越駅を降りて海岸側に約250メートルほど行った踏み切り越しにあります。
元暦二年(1185年)、源義経が兄頼朝に怒りをかい、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える「腰越状」を書いた寺として知られています。
寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されており、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されています。
「義経紀」より
偏に貴殿広大の御慈悲を仰ぎ、便宜を伺ひ高聞に達せしめ、秘計を廻らして、誤りなき胸を宥ぜられ、芳免に預からば、積善の餘慶家門に及び、栄華を永く子孫に伝え、よって年来の愁眉を開き、一期の安寧を得ん。 義経恐惶謹言。 源義経
国道134号線を挟んで小動神社の向かい側にある、空海が開いたと伝わる真言宗の寺です。 朱塗りの総門です。
号を小動山(こゆるぎさん)と称し、中興開山は弘治四年寂した元秀(げんしゅう)です。もと青蓮寺(鎖大師)の末寺でしたが現在は京都大覚寺の末寺です。ご本尊は、左に剣を持ち腕を交差させた不動明王です。
この辺りにゆかりの文人
山本周五郎、高木彬光、船橋聖一、岡崎俊夫