治承四年(1180)鎌倉大蔵の地に幕府を開いた源頼朝は、荏柄天神を鬼門の守護神と仰ぎ、改めて社殿を造立しました。以降歴代将軍も鎌倉幕府の尊社としました。
社殿
菅原道真公を祭神とする神社で、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮とともに日本三大天神とされています。
本殿は、寛永元年(1624年)に鶴岡八幡宮若宮の旧本殿を移築したものです。
社殿全景
絵筆塚の所からみた本殿です。
菅原道真の等身の木造天神坐像がご本尊です。
石段
シャガが拝殿前や熊野社に向かう石段脇に群生しています。
熊野権現社
絵筆塚の向かい側に熊野権現社がありますが、立入禁止になっています。
かっぱ筆塚
1月に、古筆や鉛筆などを燃やし学問の向上や字の上達を祈る筆供養を行います。このかっぱ筆塚は川端康成筆によるものです。
かっぱ筆塚の右奥に見えるのが絵筆塚で、高さは3m20cm、直径は1mです。
漫画家による河童モチーフのレリーフが154枚も貼り付けられています。
尾崎迷堂句碑
荏柄天満天神献歌の句碑です。
尾崎迷堂は、寺の住職でしたが俳人でもありました。
鎌倉右大臣実朝の忌なり
「大慈咲き 大悲さきたる さくらかな」
(八幡宮~天神社) 来迎寺
開山は一偏智真とされる時宗の寺です。大型の土紋を残す木造如意輪観音座像が祀られています。
この地域には、報恩寺、保寿院、高松寺、来迎寺等がありましたが、現存しているのは来迎寺のみです。
(八幡宮~天神社) 太平寺址
太平寺址石碑文は、鎌倉町青年団 により建てられたものです。
『太平寺は尼寺として代々伝わっている。
源頼朝は「池禅尼」の昔の恩に報いるため、その姪の望みを聞き、その姪が開山となった所である。
足利の時代、基氏の正妻「清渓尼」が中興するが、天文年間(戦国時代)里見氏が鎌倉を攻めたとき、住持の「青岳尼」を奪って安房へ去ってしまったため廃寺となった。
今の高松寺は寛永年間、紀州徳川家の家老水野氏が、太平寺の廃寺跡を改修したもの。
昭和6年3月 建立』
(八幡宮~天神社) 西御門
西御門は、法華堂の西の方の土地をいいます。大蔵幕府の西門の前面に当たるため、この名前が付いています。
ゆかりの文人 八木重吉、阪正臣
評論家で小説家の吉田健一はこの辺りに住んでいました。
(八幡宮~天神社)白幡神社
神社の横に法華堂跡の碑があります。
白旗神社のある所は、源頼朝の館のあった大倉御所の北隅で持仏堂があった所です。頼朝の死後は、法華堂と呼ばれ葬むられていました。
(八幡宮~天神社)頼朝の墓
白幡神社の先の長い階段を上がった所にある層塔が頼朝の墓で、国の史跡にされています。
頼朝の墓から見下ろした一帯が、鎌倉幕府跡で、侍所や政所、屋敷などがありその土地名から「大倉幕府」と呼ばれました。
(八幡宮~天神社)三つのやぐら
頼朝の墓から東の山腹に毛利秀光、大江広元、島津忠久の墓が並んでいます。
毛利秀光
広元の四男で相模国毛利壮を基盤とたため、毛利姓を名乗りました。
大江広元
鎌倉幕府草創期の重臣で、公文所や政所の別当として幕府の基盤を固めました。
大江広元の墓への登り口に村田清風の句碑がります。
鎌倉の御事蹟を 探り探りて むかし語りきくきくむしる
(八幡宮~天神社)東御門(ひがしみかど)
大蔵幕府には、四つの門がありました。名前はその方位で付けていました。
東にあるものを東御門といい、現在は地名になっています。法華堂の東の方向一帯の地域をいいます。