
鎌倉五山第一位の禅寺です。開山は蘭渓道隆で、建長五年(1263年)に 北条時頼により開創されました。我が国最初の禅宗専門道場で、境内はすべて国の史跡に指定さています。
鎌倉期の総門は、大型の八脚門でしたが、火災や地震にあい何度か再興されています。現在の総門は、京都の般舟三昧院の正門を移築したものです。現在の方丈も般舟三昧院の講堂を移築しています。
総門には中国・元からの渡来僧で建長寺十世となった一山一寧筆の「巨福山」の山号額が掲げられています
鎌倉五山第一位の禅寺です。開山は蘭渓道隆で、建長五年(1263年)に 北条時頼により開創されました。我が国最初の禅宗専門道場で、境内はすべて国の史跡に指定さています。
鎌倉期の総門は、大型の八脚門でしたが、火災や地震にあい何度か再興されています。現在の総門は、京都の般舟三昧院の正門を移築したものです。現在の方丈も般舟三昧院の講堂を移築しています。
総門には中国・元からの渡来僧で建長寺十世となった一山一寧筆の「巨福山」の山号額が掲げられています
「三門」は「三解脱門」の略称で、「解脱に至る三つの関門」を「建長寺の山門」に仮託しました。
現在の「三門」は、安永四年(1775年)に「狸和尚」の伝承で知られる二百一世「万拙碩誼」によって再建されたもので、東日本最大の三間二重門として知られます。
二階は非公開ですが、鎌倉市指定文化財とされている鋳銅製の「釈迦如来坐像」「五百羅漢像」の他、木造「十六羅漢像」が安置されています。
妙高院は、建長寺二十八世肯山聞悟が貞和二年頃創建したといわれてます。
覚海禅師・肯山聞悟が隠棲していた庵を、貞和二年(1346年)に塔所としたものです。建長寺の主流・大覚派の塔頭として、江戸時代・寛永期には23寺の末寺を抱えていました。
三門の西側、石段の上にあるお稲荷様です。
建長寺のかつての鎮守としては、四方中央鎮守が知られていますが半蔵坊ができるまでは、このような稲荷社や第六天社が建長寺の鎮守でした。
参道左手にある組石とさざれ石です。
看板には「このさざれ石は国歌君が代に歌われるさざれ石です。石灰岩が長い年月をかけて溶解し、小石を凝縮してこのような形状の石になりました。」と書かれています。
正岡子規の名句「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」は、夏目漱石が建長寺の鐘をモデルに詠んだ 「鐘つけば 銀杏ちるなり 建長寺」 に着想を得たそうです。
鐘楼の傍らにある井上剣花坊の川柳碑です。
咳一つ きこえぬ 中を 天皇旗
この句は、大正四年(1915)の大正天皇御大典の時に詠んだ一連の句の中から選ばれました。井上剣花坊は川柳中興の柱といわれ、門下には作家の吉川英治などがいます。
三本ある柏槇は、蘭渓道隆(大覚禅師)の手植えとされています。
中でも仏殿に向かって左側にある大木三本の真中の木は、樹齢750年を越える大木で「かながわ名木百選」に選ばれ、鎌倉市の指定天然記念物ともなっています。
「仏殿」は、建長寺が創建当初に建てられたもので、東側に「土地堂」、西側に「祖師堂」が建てられていました。
現在の「仏殿」は、東京・芝増上寺にあった徳川二代将軍・秀忠夫、崇源院(於江与の方)の霊屋を正保四年(1647年)に譲り受けたもので、方五間・重層の堂々とした寄棟造です。
仏殿のご本尊、地蔵菩薩坐像は応永二十一年(1414年)の火災後に再興されたものとされています。
鎌倉の禅宗のお寺では、釈迦如来をご本尊としているところが多いのですが、この地が刑場跡であったことから、追善供養の意味を込めて地蔵菩薩をご本尊としたものと考えられています。
同契院は、第三十一世象外禅鑑の塔所でご本尊は十一面観音菩薩です。
象外禅鑑は、円覚寺第四世桃渓徳悟に参禅し、円覚寺二十三世を経て建長寺へ移りました。長壽寺開山で、第三十八世古先印元坐像が安置されています。
山門の右手にある嵩山門は西来庵への入口です。
西来庵は、建長寺開山・蘭渓道隆の塔所として開山示寂後に創建された開山を祀るための「聖地」であり、塔頭の中でも別格の存在となっています。
西来庵の境内には、昭堂・開山堂・開山墓塔が建ち、禅堂を中心とした臨済宗建長寺派の専門道場となっていて、一般の人は入れません。
法堂は、建長寺を代表する建築物の一つで「三仏忌(降誕会・成道会・涅槃会)」など様々な儀式で使用されています。
現在の建物は、文化十一年(1814年)に上棟された方三間・入母屋造・銅板葺の大きなもので、関東では最大のお堂です。
正面の須弥壇上には、法堂のご本尊・千手観音像が祀られています。
法堂の天井に描かれた雲龍図は、鎌倉出身の小泉淳作の作で平成二十二年(2000年)に描かれました。
小泉淳作はこの作品を機に、京都・建仁寺の「双龍図」、東大寺の本坊・襖絵を描きました。
現在の「唐門」は、東京の芝・増上寺にあった江戸幕府二代将軍・徳川秀忠公夫人・崇源院(お江与の方)霊屋前の中門を、正保四年(1647年)に移築したものです。
唐破風を正面に向けた「向唐門」の様式で、 崇源院の子で江戸幕府三代将軍・徳川家光公の菩提寺である日光輪王寺・大猷院の唐門にも通じる金彩と浮彫りが施されています。
「唐門」は通常閉じられていますが、本来は方丈への正面入口となります。
唐門の左手の休憩所近くに、昭和の戦前戦後を通じて活躍した鎌倉文士で俳人石塚友二の句碑があります。右側の石塚友二の句碑は、昭和三十六年の時頼忌に際して建立されたものです。
好日や わけても杉の 空澄む日
建長寺では時頼忌の俳句大会が催されていて、以下は建長寺を詠んだ歌です。
建長寺さまのぬる燗 風邪ひくな
左は 花塚です。
花塚の横にある 茶筅塚(右)と茶碗塚(左)です。
建長寺では5月28日に「茶筅供養」が行われます。
茶筅供養には、使い古された茶筅が持ち寄られ、茶道の精進と感謝の祈りをこめて、その茶筅が炊きあげられます。
茶道と禅道は一致するという意味から「茶禅一致」という言葉が生まれました。
方丈は、「龍王殿」と呼ばれています。度重なる罹災と復興が繰り返されていましたが、大正十二年(1923年)の関東大震災により倒潰しました。
現在の建物は、総門と同じく昭和十五年(1940年)に京都の般舟三昧院から移築されたものです。
方丈裏の日本庭園は創建750年を記念して平成十五年(2003年)に整備されたものですが、原型は開山の蘭渓道隆が作庭しました。中央に「蘸碧池(さんぺきち)」 が配されています。
仏殿の左側、唐門に行く道と半蔵坊へ行く道がわかれる所に、蕉禅湖麿の歌碑があり、半蔵坊方面には蕉禅俳諧五哲記念碑があります。
蕉禅湖麿
雪の色風の響きも其儘か 釈迦の姿と御声なりけり
蕉禅俳諧五哲記念碑
柳川堂璋翁 世外居世外 無童爵庵呑海 風見坊玉龍 山陰坊機外 無外坊湖麿
龍峰院は、半増坊道を進み正統院の石段に突き当たる手前の石段を上ったところにあります。階段左下の石碑に龍峰院と刻まれています。階段の上が山門です。
建長寺第十五世・約翁徳倹の退居所として徳治二年(1307年)、北条貞時により創建されました。非公開とされています。
方丈の西北の石段上にある天源院は、建長寺第十三世・南浦紹明の塔所として創建されました。
南浦紹明は駿河の出身で、蘭渓道隆に学んだ後渡宋し、虚堂智愚の下で大悟しました。帰朝後は長く九州に住していましたが、最晩年の1307年に鎌倉入りし、北条貞時の帰依を受け建長寺住持となりました。
天源院は、その後小田原北条氏の保護を受け現在に続いています。
正統院は、第十四世高峰顕日の塔所で、ご本尊は文殊菩薩です。浄智寺にありましたが、夢窓疎石によって建長寺の無学祖元の塔所として建てられた正続院跡に移されました。
高峰顕日は、後嵯峨天皇の皇子といわれ、鎌倉では第二世兀菴普寧に学び、無学祖元の法を嗣ぎ、法衣と法語を授かったといわれています。
建長寺境内の最奥にある回春院は、建長寺第二十一世・徳璇が創建しました。蘭渓道隆に師事してその法を嗣ぎ、建長寺の住持に迎えられました。
回春院は、円覚寺・続燈庵と並び関東の禅林印刷事業の中心的存在で、建長寺二十九世・竺仙梵僊に印刷技術を学んだ東岡希杲は「地蔵本願経」などを出版しました。
回春院墓地には、作家の葛西善蔵や五味康祐が眠っています。
回春院の山門をくぐると大きな大覚池があり、池の周りには、いくつものお地蔵さまが祀られています。
大覚池には、大亀が住んでいるという伝説があり、別名「亀池」とも呼ばれています。
半僧坊は、明治二十三年(1890年)に、当時の建長寺住職・霄貫道老師が、静岡県・浜松市の臨済宗・方広寺から奥山半僧坊大権現を建長寺の鎮守として勧請したお社です。
ご祭神の半僧坊が天狗の姿をしいるとの伝承から、天狗にまつわる沢山の像を見ることができます。
鳥居を過ぎると、九十九折の長い石段が続きます。
途中、様々な講中の石碑が立ち並びます。次第に、大天狗・烏天狗の銅像が見えてきます。大天狗二体、烏天狗十体が奉納されています。
石段を登りきると半僧坊大権現の本殿です。朱印所の前の「相模湾見晴台」付近からは、建長寺の伽藍を始め、遠く相模湾まで見渡せます。
道はそのまま勝上嶽地蔵堂、そして鎌倉アルプスへ向かい、天園ハイキングコースへと続いていきますが、2019年の台風の爪痕が残るため現在ハイキングコースに入ることはできません。