竹寺として親しまれている報国寺は、臨済宗建長寺派に属し、開基は上杉重基とされています。
宅間法眼策の迦葉尊者の像があったことから宅間寺とも呼ばれていました。像が焼失したのちは木造釈迦如来坐像がご本尊です。
報国寺の地を「宅間谷」といいますが、これは宅間法眼の屋敷があったことに由来します。
竹寺として親しまれている報国寺は、臨済宗建長寺派に属し、開基は上杉重基とされています。
宅間法眼策の迦葉尊者の像があったことから宅間寺とも呼ばれていました。像が焼失したのちは木造釈迦如来坐像がご本尊です。
報国寺の地を「宅間谷」といいますが、これは宅間法眼の屋敷があったことに由来します。
山門を入ると、砂紋が描かれた石庭風の前庭があります。
宅間ケ谷には、川端康成や林房雄が住んでいました。
林房雄「文学的回想」より
宅間ケ谷の借家は三軒が一かたまりになっていて、間は生垣で区切ってあった。そのうち二軒が空いていたのを、一軒を私が借り、一軒を川端康成さんにすすめた。東京に飽きていた川端さんは気軽に引っ越してきて、鎌倉組の仲間入りをすることになった。・・・川端さんは、この家に一年か一年半ほどいて、大塔宮の付近に手ごろな借家を見つけて引越して行った。・・・
宅間法眼の作といわれるご本尊の「釈迦如来坐像」のほか、 聖観世音菩薩像 、 佛乗禅師像 などが安置されています。
「迦葉像」は、宅間法眼の作といわれ「宅間の迦葉」と伝えられていましたが、明治二十三年(1800年)の火災で焼失してしまいました。
昭和五十三年(1978年)に建てられた迦葉堂には、のちに製作された「迦葉像」が安置されています。
竹林はそれぞれの四季で異なった趣になります。
竹林の奥に佇む茶席「休耕庵」では、「天岸の岩」を流れる水音と竹林からの風音を聴きながら、静かに抹茶をいただくことができます。
竹林内には灯篭や石仏が点在しています。
竹林に入る左手に、住職だった菅原義道により建てられた木下利玄の歌碑があります。
利玄は、利玄調と呼ばれる独特の歌風で大正歌壇に名を残しました。
歌碑に刻まれた歌は、歌集「一路」に収められている「鎌倉古跡」にある三首のうちの一首です。
「あるき来て もののふ果てし 岩穴の
ひやけきからに いにしえおもほゆ」
本堂の左に五輪塔群があり、その隣に北條・新田合戦追悼歌碑が建っています。
竹林の奥に、足利一族のやぐらがあります。足利尊氏の祖父で置文伝説でも有名な足利家時の墓も含まれています。
本堂の裏手には、枯山水の「中庭」が広がっています。
門柱に徧流不審庵茶道場とあります。徧流は、利休の孫の宗旦の門人で、「宗旦四天王」にも数えられる山田宗徧を祖とする茶道流派です。
宗徧は宗旦より茶を皆伝し、京都表千家の不審庵同様、その名が現在まで引き継がれ伝えられています。
この建物は旧華頂宮邸といわれ、昭四年、華頂博信侯爵邸として建てられたものです。平成八年鎌倉市が取得し、平成十八年には市の景観重要建築物、国の登録有形文化財に指定されました。
洋館の裏に造られたフランス式庭園が一般公開されており、洋館内部と敷地内にある茶室「無為庵」とその周辺の庭園は年2~3回ほど特別公開されます。
「日本の歴史公園100選」にも選ばれています。
釈迦堂切通は、浄妙寺と大町を繋ぐ切通です。
釈迦堂切通のある北側の谷を釈迦堂ヶ谷と呼び、この谷には鎌倉時代に三代執権の北条泰時が、父の義時の菩提を弔うために建立した釈迦堂があったところと伝えられています。
未舗装の道が切通へと続きますが、現在は崖崩れのため通行止めになっています。