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寿福寺  総門

臨済宗、開祖・栄西を開山とする鎌倉五山の第三位の名刹で、国指定史跡です。朱塗りの総門前には「壽福金剛禅寺」の寺銘碑が置かれ 門には「亀谷山」の山号顎が掲げられています。

 

この付近一帯は、源義家が奥州平定を祈願した源氏山の麓にあたり、源氏の父祖伝来の地です。寺の創建当初は十四の塔頭を擁する寺容を誇りましたが、大火や鎌倉幕府の滅亡により、総門・中門・仏殿を軸とした形になりました。

石畳

総門の先に続く一直線の長い石畳は、京都桂離宮で使用されている「桂敷き」という技法で作られたものです。

中門

中門より内は、特別解放期間を除き非公開になっています。

 

寿福寺のある付近は、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地でした。治承四年(1180年)鎌倉入りした頼朝は、ここに幕府を構えようとしましたが、土地が狭かったことなどから計画を変更したとされています。

仏殿

中門の柵越しに見える仏殿です。ご本尊は釈迦如来、開基は北条政子、開山は栄西です。

 

境内には、中原中也、草間時光、籾山梓月らが住んで居ましたが、中原中也は小林秀雄の文によって様子を知ることができます。

「中原中也の思い出」より
中原は、寿福寺境内の小さな陰気な家に住んでいた。彼の家庭の様子があまり寂しげなので、女同士でも仲良く行き来するようになればと思ひ、家内を連れて行ったことがある。真夏の午後であった。彼の家がそのまま這入ってしまふ様な凝灰石の大きな洞窟が、彼の家とすれすれに口を開けていて、家の中には、夏とは思はれぬ冷たい風が吹いていた。

鐘楼

中門の手前を右に行くと鐘楼があります。

北条政子の五輪塔

境内裏にある墓地の崖下には、北条政子の五輪塔が収められた「やぐら」があります。

 

源実朝の五輪塔

源実朝の五輪塔

北条政子のやぐらの先にある、三代将軍「源実朝」の五輪塔です。これらの「やぐら」に行くには仏殿脇の小路を上るのが近いのですが、現在は通行止めになっています。

高浜虚子

境内裏には大仏次郎や高浜虚子のお墓もあります。虚子のお墓もやぐらの中にあり、やぐらの左には短歌投稿用のポストが設けられています。

 

虚子は、愛媛県松山市の旧藩士の子として生まれ、明治二十一年(1888年)正岡子規に師事し、明治二十四年(1891年)虚子の号を得、明治四十三年(1910年)から没するまでの約50年を鎌倉で過ごします。

 

虚子の言葉

・俳句は自然(花鳥)を詠い、また、自然(花鳥)を透して生活を詠い人生を詠い、また、自然(花鳥)に依って志を詠う文芸である。

 

・私等は死を前にして生活しつつある。死を逃避するのではない。逃避しようとしても逃避出来るものではない。唯営々として生活しつつある。その生活を包むものに花鳥風月がある。花鳥風月を透して私等の生活を諷うのが俳句である。

 

虚子が自分の墓について残した一文「秋の蝶」より

墓なんかどうでもいい、波打ち際にうっちゃってもよし風葬でも差支えないと考えていた私が、遂に自ら墓地を選定することになったことも、つとめてさうしたわけでもなく、ただ何となくさうした方がいいやうな考えになったからである。・・・「手を出せば すぐに引かれて 秋の蝶」

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