1260年に創建された日蓮宗の寺で、開基は比企大学三郎熊本、開山は日蓮の高弟日朗です。かつては住職が、東京の池上本門寺と兼務するのがならわしになっていた格の高いお寺です。
かつてこの地には比企家の屋敷がありました。比企一族は北条氏と対立して負れますが、比企能員の末子・能本は許されて日蓮に帰依し、屋敷を献上したのが妙本寺の始まりとされています。
比企一族の菩提を弔う意味で、山号を比企能本の父・能員の法号「長興」、寺名は母の法号「妙本」としました。
1260年に創建された日蓮宗の寺で、開基は比企大学三郎熊本、開山は日蓮の高弟日朗です。かつては住職が、東京の池上本門寺と兼務するのがならわしになっていた格の高いお寺です。
かつてこの地には比企家の屋敷がありました。比企一族は北条氏と対立して負れますが、比企能員の末子・能本は許されて日蓮に帰依し、屋敷を献上したのが妙本寺の始まりとされています。
比企一族の菩提を弔う意味で、山号を比企能本の父・能員の法号「長興」、寺名は母の法号「妙本」としました。
二天門に続く石畳の左手前にあるのが方丈門です。これをくぐり石段を上ると書院前に出ます。
妙本寺は、海棠の花の名所として知られています。
小林秀雄 「中原中也の思い出」より
鎌倉比企ケ谷妙本寺境内に、海棠の名木があった。こちらに来て、その花盛りを見て以来、私は毎年のお花見を欠かしたことがなかったが、先年枯死した。枯れたと聞いても、無残な切り株を見に行くまで、何だか信じられなかった。それほど前の年の満開は例なく見事なものであった。・・・今年も切り株を見に行った。若木の海棠は満開であった。思い出は同じであった。とてつもない花籠が空中にゆらめき、消え、中原の憔悴した黄ばんだ顔を見た。・・・」
方丈門をくぐらず、正面の石段を上がると二天門です。
二天門は、天保年間に造立されたもので、柿渋から作った弁柄で赤く染められています。鮮やかに着色された翼を持つ二頭の龍の浮彫が特徴です。
門の左には阿形・毘沙門天、右には吽形・持国天が祀られています。
厨子に祀られているご本尊の日蓮聖人像は、日法上人の作で、池上本門寺・身延久遠寺と一本の木で彫られた「一木三体のお像」です。
妙本寺の像は日蓮聖人御存命時の製作であったことから「寿像の祖師」と呼ばれ、日蓮上人像としては最古のもので、鎌倉市の重要文化財に指定されています。
この地には比企一族の邸があったため、寺は比企氏滅亡の歴史を物語っています。
比企一族の供養塔です。
比企能員は、養母が頼朝の乳母だったため源氏と深い関係がありましたが、将軍の外戚として北条氏をしのぐようになったことから、北条氏と対立するようになり、一族は北条政子の父時政により滅ぼされます。
源頼家の嫡男であった一幡は外戚の比企一族とともに亡くなりましたが、その焼け跡から見つかった衣の片袖を納めた「一幡之君袖塚」です。
日蓮像と霊宝殿です。
霊宝殿には、重要文化財の銅造雲版など妙本寺の寺宝が保管されています。
本堂には、宝冠釈迦如来坐像、日蓮聖人像、四菩薩像、鬼子母神などが安置されています。
鐘楼にもともとあった鐘は、第二次世界大戦に際して供出されたため、現在の鐘は昭和三十五年に再鋳されたものです。
祖師堂の近くの池の横に仙覚万葉集研究碑があります。
仙覚は、天台宗の学僧で比企氏の一族と言われています。
鎌倉時代の万葉集研究家として知られ、鎌倉幕府四代将軍藤原頼経の命により、万葉集の写本から校訂を行い後嵯峨上皇に献上しました。この碑は、万葉集研究の事績を顕したものです。
田村松坡は、文久二年(1862年)東京で生まれ、教育者として逗子開成や鎌倉女学院を創設しました。漢詩人としても知られ「明十家詩選」などの書作があります。
碑は海棠花下吟じた漢詩です。
参道の途中から左に入った細い道の奥に蛇苦止堂があります。
比企能員の娘の若狭の局が亡くなった後、局の霊が蛇と化したため、その霊を鎮めるために建て供養したと言われています。