成就院の創建は承久元年(1219年)で真言宗大覚寺派、ご本尊は不動明王。鎌倉幕府三代執権北条泰時により、弘法大師が修行した護摩壇跡に建立されました。
山門を挟んで西と東の山門に「西結界」「東結界」の扁額が掲げられています。結界とは、「特殊なエネルギーを保持した神秘空間としての界」で、聖なる領域と俗なる領域を分け、秩序を維持するために区域です。門の手前の看板に「成就院境内」と書かれています。
成就院の創建は承久元年(1219年)で真言宗大覚寺派、ご本尊は不動明王。鎌倉幕府三代執権北条泰時により、弘法大師が修行した護摩壇跡に建立されました。
山門を挟んで西と東の山門に「西結界」「東結界」の扁額が掲げられています。結界とは、「特殊なエネルギーを保持した神秘空間としての界」で、聖なる領域と俗なる領域を分け、秩序を維持するために区域です。門の手前の看板に「成就院境内」と書かれています。
成就院は極楽寺切通にあり「泰時の物見寺」 ともいわれました。当時は鎌倉防衛の要衝でしたが、元弘3年(1333年)、新田義貞による鎌倉攻めにおいて極楽寺坂は激しい戦場となり成就院も焼失します。その後江戸時代元禄期(1688~1703年)、僧祐尊により再興されました。
山号は「普明山」です。安末期に弘法大師空海がこの地を訪れ、護摩供・虚空蔵求聞持法を修めたことに始まりまったことが、「新編相模風土記」に記されています。
「新編相模風土記」より
「空海この地において数日護摩供を修す、この時、泰時高僧を請うして承久元年 一宇を建立し願成就院を称し、大師護摩の霊場なるを以って普明山と号すとなり」
本堂のご本尊は不動明王です。境内には大日如来、聖観世音菩薩(鎌倉33観音21番札所)、弘法大師座像、地蔵菩薩が祀られています。
聖徳太子1300年御忌記念に建立された夢殿をかたどった石造物です。
「和貴」の額がかかっていますが、聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に出てくる言葉で、『礼記』の「礼は之和を以て貴しと為す」にちなんでいます。
子授け・安産・子育ての功徳のある子安地蔵菩薩。二つの丸い子生み石は、その石をなでるとご利益がある霊石です。
ご本尊不動明王の分身として境内に祀られています。ご本尊の「不動明王」は、縁結びの不動として知られています。不動明王は大日如来の化身で、人間の煩悩を右手の剣で切り左手の剣索でしばり、後背の炎で焼き清める仏様です。
右横に、「お願い事をお書き頂いた護摩木を不動明王 護摩壇でご祈願致します。また縁結び不動明王パワースポットとして多くの方にお参り頂いております。」と書かれています。
極楽寺坂に沿うように登る階段の両側に般若心経の文字数と同じ262株の紫陽花が植えられ紫陽花寺としても有名ですが、現在は株数を減らし萩も植えられています。
参道の上からは由比ケ浜の海岸を一望することができます。山上にある成就院は、鎌倉を守る要所でもありました。
長谷方面の東門です。成就院の石段は、人間の煩悩の数と同じ108段です。
星月井は成就院の東結界を出た極楽寺坂にあります。
天平の時代(729-749)、初めて民衆に仏法を説いた行基菩薩が諸国を行脚していた時、この地の古井戸「星月の井」に明星の光が映るとの噂をきき、井戸をのぞいてみると中に虚空蔵菩薩の姿が映っていたため、その姿を仏像に彫りお堂を建立しました。日本三虚空蔵に数えられています。
広津和郎「静かな春」より
私の家は、鎌倉から片瀬、江ノ島方面へ通ずる街道が、極楽寺さかの切通しにさしかかろうとして、だらだらと緩い勾配になりかけたところの左側にあった。門の前には、あの有名な星の井があって、私たちはその井戸の水を汲むことになった。この井戸の水は、鎌倉では12の名水として、数百年前の遠い昔から、名高いものなのだけれども、この水を飲み初めて三四日すると、「この井戸の水はだめだ、お茶が濁るから」こう言って、私の父は一言の下に、その価値を否定してしまった。・・・
星の井寺(虚空蔵堂)は、鎌倉にいくつかある行基菩薩による仏地のひとつで、星の井に仏を見た行基が自ら仏像を彫り、お堂を建立したことに始まります。
虚空蔵堂は成就院の管理下にあり「明鏡山円満院星井寺」と称します。ご本尊の虚空蔵菩薩は、智恵と福徳を人々に施し、源頼朝も敬ったと伝えられています。鎌倉時代には、源頼朝の命により秘仏とされ、35年に一度だけ開帳されていました。
現在は、一月・五月・九月の13日に開帳され護摩供養が行われますが、現在はコロナ禍で僧侶のみにて執り行われています。