玉縄城跡

玉縄城本丸跡 (現・清泉女学院)

玉縄城は、北条早雲 が永正九年(1512)に築いた鎌倉唯一の城郭です。

 

三浦半島の付け根に当たる玉縄の地は、南の三浦氏、北の扇谷上杉氏を牽制し、その後は房総半島の里見氏に対する水軍基地となり、北条氏が関東覇権を目指す前線基地となりました。玉縄城の外堀が柏尾川と繋がっているため、船で相模湾まで出ることも可能だったとされています。

 

信玄、謙信による北条氏攻めの攻撃を退けた堅城として知られていますが、城主北条氏勝は、秀吉の小田原攻めにあい家康軍に降伏しました。 その後氏勝は、徳川家の家臣となり下総岩富城1万石の領主となりました。

 

城は、江戸時代中期ごろに廃城になったとされます。現在の清泉女学院のある丘陵一帯が城跡ですが、当時の面影は残っていません。

長屋門

七曲りに向かう途中にある江戸時代の長屋門ですが、個人敷地内のため入ることはできません。

 

長屋門は、江戸時代に多く建てられました。諸大名は、自分の屋敷の周囲に長屋を建て、家臣を住まわせていましたが、その一部に門を開いたのが長屋門の始まりです。その後、長屋門は上級武士の住宅の表門の形式として広く利用されるようになりました。

冠木門

「冠木門」とは左右の門柱を横木(冠木)を渡した屋根のない門です。

古くは下層階級の家に用いられましたが,諸大名の外門などにも用いられました。

 

「冠木門」、「七曲坂」を越えて「平場」、「太鼓城址」、「大手門跡」から城址主要部(清泉女学院)へ入り「諏訪壇」「城跡碑」「けまり場」などの遺構を経て龍宝寺に戻ることができます。

七曲坂

玉縄城の本丸直下にある「七曲り坂」です。急坂でいくつにも折れ曲がっていることから七曲りと呼ばれています。

 

玉縄城側に登りつめた両側は土塁になっています。土塁の内側は平場のため下から攻め上がる敵を攻撃し防御できるようになっていました。

太鼓櫓跡

七曲坂の上には「太鼓櫓跡」の平場があり、現在は緑地公園になっています。ここに、陣太鼓を打ち鳴らす櫓が建っていたと言われています。

 

太鼓櫓の下には「焔硝蔵(火薬庫)跡」や切通しがあり、太鼓櫓から見下ろすことができます。

緑地公園

公園の西側には、鉄砲の火薬を保管していた煙煙蔵があったといわれる小曲輪群が見られます。

 

市民緑地の先の学校の裏門は本丸表門があった場所です。

 

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