円覚寺 白鷺池(びゃくろち)
無学祖元(開山)が鎌倉に来た際に、鶴岡八幡宮の八幡大神が白鷺となってこの池に舞い降りたといわれています。参道の入り口の両側にあるのが白鷺池ですが、1889年の横須賀線開通で、半分は埋め立てられてしまいました。
【立原正秋】鎌倉に長く住み鎌倉を舞台にした数多くの小説を書いています。
「冬のかたみに」より
山門の前は横須賀線が走っており、北鎌倉駅が近かった。・・・
【久米正雄】 小説家、劇作家
「破船」より
鎌倉の海は穏やかに凪いでいた。・・・ 老師の寺が円覚寺と聞いていたので、何よりもまづ車を雇って、晴れた穏やかな日陰の中を・・・
総門
「瑞鹿山」と白書された扁額は、数々の天災を免れてきたもので、15世紀に在位された後土御門天皇の御宸筆とされています。
開山・無学祖元が円覚寺創建にあたり法話を説いていると、山中から現れた白鹿も聞き入ったとの逸話から、この山号が付けられました。
総門の築地塀には、門跡寺院級の格式を示す五本の白線が刻まれています。
裏門・般若水
総門の南側に裏門がありますが、茅葺の建物は守衛所になっている「看門寮」です 。
「看門寮」 に向かって右側には今も「般若水」が湧き出ています。
桂昌庵(十王堂)
山門西側の桂昌庵は閻魔堂とも呼ばれています。
本堂内には、秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、泰山王、平等王、都市王、五道転輪王の「十王」が祀られています。
ご本尊の「矢柄地蔵尊」にちなんで、弓道場が設けられています。
松嶺院
円覚寺百五十世叔悦禅懌の塔所で、「不閑庵」と称していましたが、足利高基の息女・松嶺院月窓妙円尼から寺領の寄進があり、「松嶺院 」と改められました。
有島武郎や葛西善蔵らが滞在していたことがあります。
【有島武郎】小説家、評論家
松嶺院にこもり、代表作となる「或る女」の後編を執筆しました。
山門
現在の「三門」は、天明三年から五年(1783~1785年)に、円覚寺中興開山として知られる第百八十九世住持の誠拙周樗 により再建されたもので、県の重要文化財に指定されています。
三門は、禅寺における「七堂伽藍」を構成する建造物の一つで「三解脱門」の略です。正面に掲げられた扁額には「圓覺興聖禪寺」と書かれていますが、延慶元年(1308年)の「三門」再興の折に伏見上皇より賜った額草を基に製作されたものです。
帰源院
山門の右手の道を上っていくと、左手に塔頭の一つである帰源院の山門があります。左の門柱には「鎌倉漱石の会」の看板があり、毎年春と秋に漱石をしのぶ会が開かれています。2020年はコロナ禍のため中止となっています。
【夏目漱石】小説家、英文学者
1894年12月から翌1月まで参禅しその時の体験を「門」や「夢十夜」に描いています。小説「門」の中では宗助(漱石)、宣道(帰源院の雲水)、老師(円覚寺官長の釈宗演)、帰源院は一窓庵として描かれています。
「門」より
左右にも行く手にも、堂のようなものや、院の様なものがちょいちょい見えた。 宗助は何処へ行って、宜道のいる所を教へてもらおうかと考へながら、誰も通らない路の真ん中に立って四方を見回した。・・・
材木座に滞在した折に帰源院を訪ね詠んだ俳句 『 佛性は 白き 桔梗に こそあらめ 』
【島崎藤村】詩人、小説家
1893年の一時期滞在し、その頃のことを小説「春」に描いています。
「春」より
岸本が泊まっているところは円覚寺境内の古い禅寺、苔の生えた石段を上り詰めたところに門を構へたような位置に在る。・・・鳥の聲より外に境内の静寞を破るものが無かった。・・・
鐘楼・弁天堂
正安3年(1301年)の刻銘がある鎌倉で最大の梵鐘で、鎌倉三名鐘の一つです。
総高は259.4センチ、口径142センチで、鎌倉時代の代表的な形態を表しています。
昭和二十八年、建長寺の梵鐘とともに国宝に指定されました。
選仏場
選仏場とは、座禅修行を通じて悟りに達した「仏」を選び出す場という意味です。別名「蔵殿」とも呼ばれ、僧堂を兼ねた経堂として元禄十二年 (1699年) に創建当時の七堂伽藍の僧堂に 建立されたものです。
正面に掲げられた扁額「選佛場」の文字は、中国・宋より伝来した禅林の巨匠・無準師範の書を東福寺の額より写したものです。
仏殿
現在の仏殿は、昭和三十九年(1964年)に落慶法要を迎えたもので、関東大震災で倒壊した先代の仏殿から頑丈な鉄筋コンクリート製に作り替えられました。
正面の扁額には「大光明寶殿」とあり、現在の仏殿に掲げられているものは、永和四年(1378年)の後光厳天皇の御宸筆によるものです。
唐門
唐門は、方丈の正門と、舎利殿の前に立つ正続院の唐門がありますが、正続院の唐門は普段は非公開となっています。
方丈の正門である唐門は、天保十年 (1839) の建立されたものです。
見事な彫刻が施された唐破風の懸魚には菊の花と葉、大瓶束の両側には亀に波、その上には雲形が彫られています。台輪と虹梁の間には鳥と松などが見られ、奥側には龍が彫られています。
大方丈
本来は住職が居住する建物を方丈と呼びますが、現在は各種法要の他、坐禅会や説教会、夏期講座等の講演会や秋の宝物風入など、多目的に使われています。
方丈の裏には、心字池のある美しい庭園が広がっています。
正伝庵・妙香池(みょうこうち)
妙香池付近は桜の木が多いところで、春には周囲の木々と相まり美しい景観が見られます。池の奥には正伝庵が見えます。
山梨の恵林寺を開山した臨済宗・夢窓国師が作庭したとされる庭園です。
舎利殿
当初のものは弘安八年 (1285) の頃に建立されたと言われていますが、再三火災に見舞われました。
この舎利殿は、鎌倉尼五山の一つであった 大平寺 の 仏殿 を天正元年(1573年)のころに移築したものです。
佛日庵(ぶつにちあん)
円覚寺開基・北条時宗公をお祀りする旦那塔です。佛日庵には多くの文人が訪れて作品の中に描いています。境内ではお抹茶をいただくことができます。
【大佛次郎】 大仏裏に住んでいたので筆名を大佛次郎と名乗りました。
「帰郷」より
境内に一歩入ると、夕日をあびて満開の白色の木蓮の花と、これに向かい合って咲く吉野桜の、空の藍色の中に泛んだ華やかな姿が思わず恭吾を立ち止まらせた。・・・
【川端康成】浄妙寺、二階堂、長谷に住んでいました。久米正雄、高見順らと貸本屋鎌倉文庫を開くなど鎌倉分子の中心となって活躍しました。
「千羽鶴」より
鎌倉円覚寺の境内に入ってからも、菊治は茶会に行こうか行くまいかと迷っていた。・・・
白鹿洞(びゃくろくどう)
黄梅院に向かう参道の仏日庵前にある洞です。
円覚寺の創建開堂にあたり無学祖元の法話を聞くために、山中から白鹿が出てきたという言い伝えがあります。その白鹿が出てきたというのがこの「白鹿洞」です。
円覚寺の山号は「瑞鹿山」で、この山号は「めでたい鹿のお山」という意味です。
黄梅院
円覚寺境内の最奥で最も高い位置にあります。円覚寺十五世・夢窓疎石の塔所として創建されました。
夢窓疎石は、五山文学の隆盛に大きく貢献した人物で、夢窓疎石を師と仰ぐ夢窓派の関東における一大拠点となりました。
応安元年(1368)には室町幕府二代将軍足利義詮の遺骨が分骨されたことにより、足利氏の菩提寺となりました。
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