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光明寺 総門

天照蓮華院山光明寺、浄土宗鎮西派の大本山です。開基は四代執権北条経時、開山は然阿良忠です。

 

総本山の京都・知恩院に次ぎ、芝・増上寺や善光寺・大本願と並ぶ寺格の寺で、鎌倉最大級の本堂(大殿)や山門を始めとする立派な伽藍が整備されています。

すぐ南に材木座海岸がある広大で開放的な境内です。

山門

鎌倉最大級の山門は、弘化四年(1847年)に再建されたものです。高さ20m、間口16m、奥行き7mという大きさの禅宗様の五間三戸二重門で、19世紀鎌倉を代表する建築物です。

 

山門内部は三月下旬の観桜会と十月の十夜法要の日に拝観できます。2階部分には釈迦三尊、四天王、十六羅漢が祀られています。

本堂(大殿)

本堂の屋根は巨大な銅葺です。元禄十一年(1698年) に建てられた鎌倉最大の九間堂です。幕府の上意のもと、仏像などを開帳し広く勧請し祈祷堂、鎮守、客殿などとともに建立されました。鎌倉に21件ある国指定重要文化財建造物のひとつです。

 

本堂左手前に「鎌倉アカデミア」の碑があります。かつて本堂と庫裏を教室として昭和二十一年(1946年)に開校しました。哲学者の三枝博音、作家の高見順、歌人の吉野秀雄らを迎えて、国家の規制にとらわれない自由な教育を目指していましたが、資金難によりわずか4年で閉校しました。鈴木清順、川久保潔、山口瞳、いずみたくなど優れた卒業生を輩出しました。

阿弥陀様

ご本尊の阿弥陀三尊のほか、木造記主禅師坐像などの彫刻も多く、古文書、経典類も豊富です。特に鎌倉時代の作である国宝当麻曼荼羅演技二巻の絵巻をはじめとして絵画も多数あります。

大聖閣

本堂から開山堂に続く、渡り廊下北側の蓮池を中心とした庭園は、小堀遠州作と伝えられています。蓮池の奥には八角形の大聖閣が見えます。

 

蓮の花の咲く季節には観蓮会が開かれます。普段は立入ることのできない大聖閣で蓮池を眺めながらお茶をいただいたり、蓮の葉を杯にお酒やお茶を飲む「象鼻杯」の体験イベントが行わます。

永井龍男「杉林そのほか」より

夕食後に光明寺まで出かけることにした・・・光明寺の山門まで両側に点々と夜店が店を張り、例年の通り瀬戸物のたたき売りなぞが客を集めていた。

 

武者小路実篤「記憶の切れ切れ」より

自分は四つから十になるまで毎年夏 鎌倉に家中で出かけた。大概光明寺に宿をとった。・・・鎌倉では兄や姉や、従兄や従弟たちと遊んでいた。ある日兄等がとった章魚を自分がビクに入れて持たされたのを逃がして兄に怒られたことがあった。

石庭

「三尊五祖の石庭」

釈迦三尊と浄土宗の五祖(釈尊、善導大師、法然上人、鎮西上人弁長、記主禅師)になぞらえた庭石を配置し、砂紋を丁寧に描いた石庭です。

天照山

光明寺の山号にもなっている天照山へは、三尊五祖の石庭の右横から上っていきます。見晴らしがよく、眼下の伽藍の屋根の向こう側に稲村ヶ崎まで見渡せます。

 

この辺りのゆかりの文人 吉井勇 久保田万太郎 竹山道雄 夏目漱石 円地文子

光明寺辺り 由比若宮

鶴岡八幡宮の前身で元八幡とも呼ばれています。この近くに芥川龍之介が新婚時代住んでいました。

 

「身のまわり」より

僕は当時鎌倉の辻といふ処に住んでいた。借家は或る実業家の別荘の中に建っていたから、芭蕉が軒を遮ったり、広い池が見渡せたり、存外居心地のよい住居だったが、八畳二間、六畳一間、四畳半二間、それに湯殿や台所があっても、家賃は十八殿を超えたことはなかった。・・・あの借家も今では震災のために跡かたちもなくなくなっていることであろう。

 

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