龍宝寺

龍宝寺 山門

木造茅葺で江戸時代末期の創建とされています。

龍宝寺の建物は、昭和二十六年(1951年)の火災により山門・鐘楼を除き焼失しましたが、昭和三十四年(1959年)に再建されました。

 

山門を入って左側には玉縄幼稚園が、右側には玉縄歴史館があります。

本堂

曹洞宗の寺で、開基は北条綱成、開山は泰絮宗栄禅師です。ご本尊は釈迦如来像です。

 

当初は現在の場所より北にありましたが、天正三年(1575年)玉縄六代目城主北条氏勝がこの地に移しました。

 

玉縄北条氏の菩提寺として広い土地と財力を持っていましたが、小田原の北条氏が滅亡するとともに衰えました。江戸後期になって再建されましたが、昭和二十六年の火災により全焼し、昭和三十四年に大岡実の設計で再建されました。

庫裏

庫裡と本堂は回廊で繋がっています。

 

江戸時代中期、旗本であり朱子学者でもあった新井白石は、付近の城廻に家禄を得ると龍宝寺に200石を献上しました。寺は、朝鮮通信使の宿舎として使われた事もあります。

玉縄北条氏供養塔

本堂の脇に「玉縄北条氏供養塔」があります。

 

北条網成、繁氏、氏勝の玉縄北条氏三代の城主が祀られている供養塔です。

もとは龍寳寺の裏山の頂きにあり、村人から「ぶっけり仏」と呼ばれていましたが、平成十二年の玉縄城築城500周年を契機に本堂横に移し、石塔も新たに建立したものです。

玉縄歴史館

かつては、「玉縄民俗資料館」という名称でしたが、2013年に国指定重要文化財の旧石井家住宅と併せて「玉縄ふるさと館」となり、2020年には「玉縄歴史館」としてリニューアルオープンしました。

 

玉縄城関係資料、縄文時代の遺物、郷土資料、民具や農具が展示されています。

有志により玉縄城址まちづくり会議が行われ、玉縄城の歴史や発掘調査の報告が行われています。

北条氏の歴代の旗

歴代玉縄城主の旗が展示されています。

玉縄城の模型

玉縄城に関する遺物や資料、地元の歴史資料から縄文時代の遺物まで数多く展示されています。

 

これは、緻密に作られた玉縄城立体模型で、玉縄城とその周辺の地形や城の堅固な造りがよく分かります。

鎧や兜

兜や胴、出土した土器なども展示されています。

昔の生活道具

2階には旧石井家や周辺の旧家に残されていた家具や農具を展示しています。昔の生活道具が展示されています。

石井家

石井家はもともと後北条氏に属した地侍でしたが、後北条氏滅亡後帰農して関谷村の名主を務めた家柄です。

 

龍宝寺の山門と同じ元禄年間に建てられた古民家です。元は玉縄の北隣に位置する関谷に建っていましたが、龍宝寺の住職が寄贈を受けて境内に移築保存しました。

土壁の家屋は、神奈川県下に残る伝統的な農家建築の典型例として昭和四十四年(1969年)に国の重要文化財に指定されました。

御所車

石井家の庭に置かれた御所車です。

御所車は昔の貴人が使用した乗物で、牛をつけたものを牛車(ぎっしゃ)といいいます。

弁天堂

洞窟脇にある弁天堂です。

團野功雄の歌碑

境内に、神風特別攻撃隊至誠隊隊長の辞世の句碑が建っています。

 

いざさらば 吾が身散るとも 我が心
              堅く護らん 皇孫の國   

福徳稲荷堂

福徳稲荷堂です。

本堂

本堂は銅葺の重層入母屋造です。

 

本堂内には、本尊の釈迦如来坐像や脇侍の文殊菩薩・普賢菩薩が安置されているほか、源実朝や後北条時代の歴代玉縄城主の位牌も祀られています。

本殿内部

欄間には五百羅漢像が彫られています。

 

五百羅漢像とは、お釈迦さまの入滅後の第1回の経典結集のときに集まったという500人の聖者のことです。

庚申塔

道祖神、庚申塔と馬頭観世音。

 

庚申塔の先には、享保十年(1725年)に室鳩巣が撰した新井白石に関する碑がありますが、風雨により劣化のため銘文は判読できません。

 

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