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極楽寺 山門

茅葺の山門です。山門左手に寺号碑が立っています。

 

山門には「霊鷲山」の山号額が掲げられていますが、お釈迦様が霊鷲山を拠点に多くの弟子たちに法を説いていたのが由来です。 大乗経典の「無量寿経」「法華経」が説かれたのも「霊鷲山」 と言われています。

 

 

くぐり戸

境内には右のくぐり戸から入ります。 

参道

山門から本堂にかけての参道の桜は、春には見事なトンネルを作ります。

 

真言律宗で開山は良観房忍性、開基は北条重時です。重時は北条泰時の弟で、六波羅探題を勤めました。

本堂

寺の創建は正元元年(1259)とされますが、実際に寺容が整ったのは1267年以降とみられており、当初は金堂・講堂・塔などの伽藍のほか49の支院を数える鎌倉でも有数の大寺でした。

 

本堂の須弥壇中央には不動明王坐像のほか薬師如来坐像などが安置されています。毎年、灌仏会の前後4月7日から9日までの3日間のみの開帳されます。

客殿

中世の女流日記文学を代表する後深草院二条の「とはずがたり」より

 

明くれば、鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りてみてば、僧の振る舞い都にたがわず、なつかしくおぼえて見つつ、化粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方を見れば、東山にて京を見るには引き違へて、階などのように重々に、袋の中に物を入れたるように住まいたる、あな物わびしと、やうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず。

 

大師堂

如意輪観音が安置されています。

 

極楽寺は鎌倉における慈善救済の中心地として積極的に非人救済活動を展開していました。その代表者が叡尊(1201-90)とその弟子で極楽寺を活動拠点とした忍性(1217-1303)です。

 

千服茶臼・製薬鉢

現在はスイレンが植えられていますが、開山の忍性が施薬に使用していたとされていたものです。看板には「開山忍性菩薩が施薬悲田院、癩病所を設けた折りに使用したものと伝えられる。往古社会救済事業をなした極楽寺の貴重な遺品の一つである」と書かれている。

 

江戸時代の往古図には記録や伝承をもとに極楽寺の盛時が描かれている。
仁王門(現山門)、四玉門(現本堂)、金堂、講堂、方丈(華厳院)が一列に並び、両側には金堂、護摩堂、御影堂などの諸堂が並ぶ。諸堂の中には病宿、施薬悲田院、薬湯寮、馬病屋などもあります。 

⇒ 往古図はこちら

子育て地蔵

子育て地蔵が祀られています。

 

導地蔵堂(境外)

極楽寺でご朱印を頂ける鎌倉二十四地蔵尊霊場・第20番札所のご本尊は「導地蔵」ですが、現在の境内ではなく、桜橋の袂の「導地蔵堂」に安置されています。大寺であった当時は、この辺りも境内であったと思われます。

 

子供を守り育ててくれる導地蔵様の視野の範囲では、災難が起きないとされています。

極楽寺切通

鎌倉七切通の一つで、極楽寺の開山忍性が切り開いたとされています。

この道は、極楽寺の前を通り、腰越、片瀬を経て東海道に通じ、京都・鎌倉間の要路とされていました。

 

「太平記」では、新田義貞の鎌倉攻めで、新田勢の大将大館宗氏が極楽寺口から攻撃して敗れたと伝えられています。

 

極楽寺辺りにゆかりの文人

伊藤海彦、中山義秀、大岡昇平など

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