
鎌倉七口の一つです。鎌倉と三浦半島を結ぶ重要な道で、北条氏と敵対していた三浦半島の豪族三浦氏に備えるため13世紀前半に整備されました。
現在は、ハイキングコースになっており、大切岸やまんだら堂やぐらなどの史跡を訪ねることができます。
鎌倉七口の一つです。鎌倉と三浦半島を結ぶ重要な道で、北条氏と敵対していた三浦半島の豪族三浦氏に備えるため13世紀前半に整備されました。
現在は、ハイキングコースになっており、大切岸やまんだら堂やぐらなどの史跡を訪ねることができます。
法性寺側からのルートは、寺の右横にある坂道を上がり寺の裏側に回ります。
法性寺由来
日蓮上人が、文久元年(1861年)鎌倉松葉ヶ谷の草庵を他宗の僧に焼き討ちされここまで逃げ延びたとき3匹の白い猿が現れ日蓮の世話をしましたが、それに恩を感じた日蓮はこの地に寺を建てるように弟子に頼んだ、と伝えられています。
かつて大切岸は、三浦氏の侵攻に対する防衛線と考えられていましたが、平成十四年に発掘調査をした結果、大規模な石切り場の跡だったことがわかりました。鎌倉でさかんに寺院が建立された14世紀ごろ、大量の石材が切り出されていたようです。
確認されているのは 、法性寺墓地の裏手の幅約800mで、高さは場所により4mから10mに渡っています。
お猿畠の大切岸から7分ほどのところに、「まんだら堂やぐら群」があります。100基以上のやぐらが確認されている鎌倉有数のやぐら群です。
伊藤海彦「岩 莨」より
「鎌倉は滅びた町。・・・それを知るためには町の家並みからほんの少し山へと足を向ければいい。南面した山腹には、鎌倉特有の墳墓、無数のやぐらが残っている。・・・が、それを一人でじっと見つめていると、虚しさはやがて稚いながらも一種の悟りようなものに変わる。(つまりこれなのだ。これでいいのだ。人の一生とはこれなのだと)・・・と。」
中程にある道幅の狭い第一切通です。
「吾妻鏡」には天福元年(1233年)8月18日の項に「名越坂」として初めて登場しますが、記述の内容からこれ以前に存在していたと思われます。
澁澤龍彦「きらら姫」より
「そもそもこのお猿畠というのは、鎌倉の町の中心からはるかに遠く、三浦から鎌倉入りするためには是非通らなければならない、鎌倉七切通しの一つたる名越切通の北に続く山のことじゃ。…」