開基は、方丈貞時です。東慶寺は代々名門出身の住職を迎え、格調が高く松岡御所とも称されました。第五世の皇女用堂尼や第二十世の天秀尼などがよく知られており、縁切寺としても有名です。
境内には文学関係の碑が多くあり、岩波茂雄・鈴木大拙・西田幾多郎・和辻哲郎など寺にゆかりの文人も多く眠っています。
茅葺の山門をくぐると受付があり、受付けの左手に明治末期から大正に掛けて人気を得た小説家、田村俊子の記念碑があります。
開基は、方丈貞時です。東慶寺は代々名門出身の住職を迎え、格調が高く松岡御所とも称されました。第五世の皇女用堂尼や第二十世の天秀尼などがよく知られており、縁切寺としても有名です。
境内には文学関係の碑が多くあり、岩波茂雄・鈴木大拙・西田幾多郎・和辻哲郎など寺にゆかりの文人も多く眠っています。
茅葺の山門をくぐると受付があり、受付けの左手に明治末期から大正に掛けて人気を得た小説家、田村俊子の記念碑があります。
天井に龍が描かれた鐘楼は、関東大震災唯一の生き残りです。
元々補陀落寺にあったものですが、戦国期の混乱時に移されたものです。
開山当初にあった梵鐘は、鎌倉幕府滅亡の折に伊豆韮山に移され、現在は本立寺にあります。
本堂に向かって右手に、落ち着いた佇まいの書院があります。
以前の建物は、徳川忠長屋敷から移築されたものでしたが、関東大震災で倒壊し再建されました。
京都裏千家にあった茶室を、複数の持ち主を経て移築したものです。
屋根は銅葺で外壁や雨樋も整備されており、内部も改装されています。
本堂入り口脇には、四賀光子の歌碑「東慶寺開山覚山尼賛歌」があります。
流らふる大悲しの海に よばふこえ時をへだてて なほたしかなり
現在の建物は、昭和に入ってからのものです。室町時代に建てられた元の仏殿は、横浜の「三溪園」に移築されています。
扁額には、蘭渓道隆の名で「波羅蜜」とあります。
ご本尊の木造釈迦如来坐像です。
ご本尊の左側の檀に、二十世住持の天秀尼像が安置されています。
天秀尼の残した事蹟からは、豊臣家直系最後の生き残りとして、誇りを持って勤められた様子が伺えます。
松ヶ岡文庫に向かう道に、鈴木大拙を経済的に支えた安宅弥吉を讃えた頌徳碑が建っています。 「松ヶ岡文庫」建設に際し、 喜捨してくれた安宅氏を称えたものです。
鈴木大拙は碑文の中に「財団法人松ヶ岡文庫設立の基礎はまったく君の援助によるものである」と書いています。
中門を入った右手にある石塔は「宗光塔」です。
釈宗演が、愛弟子の植村宗光を日露戦争で失った際に建立したものです。
重要文化財の聖観音菩薩立像が安置されています。
宝庫は、寺宝を安全に保管できるよう堅牢な造りになっています。
立礼式の茶室です。定期的に挿し花や写経の講座が開かれています。
白蓮舎の前は、菖蒲畑になっています。
松ヶ岡文庫の入口は、墓苑の手前にあります。
松ヶ岡文庫は、鈴木大拙が東慶寺境内に創設した財団法人で、コロンビア大学を辞し米国から帰国した後、最晩年の研究生活を送った場所です。七万冊にもおよぶ仏教文庫が保管されていますが、一般公開はされていません。
東慶寺代々の住職の墓地と向かい合う位置に、東慶寺中興開山・釈宗演のお墓と歌人佐々木信綱の歌碑があります。
心よりやがてこころに伝ふれば
さく花となり鳴く鳥となる 釈宗演
宗演老師の歌を選びつつ心に 信綱
雲に問へば雲はもだせり 風にとへば
かぜながれ去るいかにせましや
山門に続く石畳に 「夏目漱石参禅100年記念碑」があります。
東慶寺境内には多くの歌碑があります。
松下隆章句碑 野椿の 一輪おちて 春さむく
田島絹亮句碑 みちにこの石ころ 石ころひとつ
田島房子歌碑 ふるさとの 山の畑の蕎麦の花 わがまどろみに入り来て
野田大塊句碑 和尚現前仰ぐや 雪の松が丘
三枝博音句碑 牛菩薩 稚児が遅れば 蓮華喰う
徳富蘇峰詩碑 富貴功名両漠然 忠誠一貫即安禅
寒梅翠竹人如在 相許相知五十年
太田水穂歌碑 何ことを待つへきなら志何ことも かつがつおもふ程は遂げしに
四賀光子歌碑 九十年 生き来し われか 目つむれば 遠汐さゐの 音ぞきこゆる
中村汀女歌碑 沈丁や 夜を行きたりし 薬取り
東慶寺に眠る人々
小林秀雄 評論家
岩波茂雄 岩波書店創業者
鈴木大拙 仏教学者
西田幾多郎 哲学者
前田青頓 日本画家
和辻哲郎 哲学者